
『波娜婀娵女(はなあやめ)』(中川徳右衛門、一九二四年五月二〇日七版、初版は一九〇五年四月二一日)。京都島原角屋発行の案内書である。個展会期中に某氏より差し入れていただいた(むふふ)。
とはいうものの、この方面はまったく不案内である。が、この書によれば、足利義満が京都の東洞院七条下るに傾城町を免許したのが日本遊廓の根元だそうだ(そんなはずはなかろうが)。その後、秀吉が押小路柳馬場に廓を集め、それを万里小里(路?)の廓と称した。柳の樹を女郎の黒髪に見立てて柳町とも呼ばれ、たいへんに賑わったが、家康が皇城に近いという理由で郊外、六条三筋町(ここも柳町)へ移転を命じた。その繁昌ぶりは京都所司代の乗物を止めて遊女が通るようなありさまで、寛永十八年(一六四一)に突然、朱雀の西、七条の北の現在地へ移転が申し渡された。これを西新屋敷といい、島原の乱(一六三七〜八)にも劣らない大騒動で移転したことから「島原」と通称され、今日にいたるとか。

口絵写真より「太夫道中の盛装」。本文にこう書かれている。
《大阪にては満太、東京にては花魁といふを此廓にては「太夫[ルビ=たいふ]」と呼ぶ(廓の中にては之をこつたい[四字傍点]と呼ぶ、別に意味あるにあらず、唯親しく聞えんためにくだけしものなり此名称の起因は六条三筋町の頃全盛の女郎が余芸を捨てゝ専ら能狂言に憂身をやつしける故此名を付するに至りしとなり》
《大阪にては満太》のところに万年筆のようなもので線が引かれ、消されているから、旧蔵者が「まんた」とは呼ばないと否定したものだろうか。「こつたい」で検索すると「
京都島原元高砂太夫のお店こったい」というサイトが見つかった。

序文(角屋あるじ)が名調子なので読めるように少し大きめに引用する。文中に《兵士の背にランドセールといふもの真紅の半輪を描いてかゝり》とあるのが気になった。検索してみると、ランドセルは幕末の兵士の「はいのう」すなわちオランダ語のランセル(ransel)からきているのだそうだ。それはどうやらこういうものらしい。

ただし、念のため「ransel」を「ヤフー! オランダ」でイメージ検索してみた。驚くなかれ、驚いた。驚いてくだされ。
Yahoo! Zoekresultaten van afbeelding voor ransel