黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社、二〇一〇年一〇月七日、装幀=三村淳・三村漢)。まだ半分くらいまでしか読んでいないが、偶然が重なったので、ちょっと書いておく。
日露戦争勃発(一九〇四)とともに当局の弾圧が厳しくなって『平民新聞』を発行する平民社(堺利彦、幸徳秋水らが経営)は財政危機に陥ったため紙面で維持金を募集した。それに応じて北輝次郎(一輝)から二円、洋食店「龍圡軒」から五円、徳冨蘆花から一円などの寄付があったそうだ(p130-131)。
《「龍圡軒」は、国木田独歩や田山花袋など自然主義文学者を中心としたサロン「龍土会」の会場として知られ、当時の場所からは移転したが、現在も東京の港区に存在する》
ちょうどこのくだりを読んだ日に某氏より『Sym.』03(甲南大学文学部木股知史研究室、二〇一〇年一〇月三〇日)を頂戴した。それがなんと特集「ドキュメント龍土会」だった!
それによれば、第一回は明治三十五年の一月中旬、
麹町の英国公使館(麹町区五番町、現在の英国大使館=千代田区一番町)の横にあった「快楽亭」で開催されている。料理は英国公使館の日本人コックが作った。国木田独歩や蒲原有明、田山花袋らが柳田国男の家に集まって雑談していたのだが、養子である柳田が家族に遠慮するので蒲原有明が場所をその洋食店へ移したのがそもそもの「龍土会」の前身。初めのうちは柳田が熱心に通知を出すなどして開催をうながした。明治三十五年には「文人清和会」としたが、明治三十七年十一月に龍土軒で開催されたときには「凡骨会」などとも称し、明治三十八年新春に「龍土会」と命名した。
どうやら快楽亭が麻布龍土町へ移転して龍土軒となったようだが、小山内薫によれば、龍土軒の主人は横浜のホテルかどこかでフランス料理のコックをしていた。美術学校の岩村透と和田英作がひやかしに入ったところ案外にうまいので驚いて紹介して歩いたそうだ。その後主人夫婦は亡くなり養子が跡を継いだ。「龍土会」は大正七年に本郷の燕楽軒で開かれたのが最後。その後大正十一年に日本橋末広で旧・龍土会(?)の集まりがもたれている。開催記録表にはざっと八十回以上がリストアップされており(イブセン会も含む)、特集の本体ではさまざまな文献から龍土会に関する証言が引用されている。これは労作だ。
もうひとつの偶然は徳冨健次郎『新春』(福永書店、一九一八年三十八版)。今日、書斎とアトリエの整理をしていたら、この本が目にとまった。付箋が付いている。開いてみると、徳冨蘆花の書斎の写真が載っており、こんなことが書いてあった。新聞や雑誌で蘆花は成金だと書き立てられるという前振りがある。
《何時ぞや絶えて久しい堺利彦君から手紙が来ました。困つて居る人があるから、恒春とやら私の台湾の地所で使つてくれぬか、と云ふのでした。私は早速返事を出しました。「お易い御用、喜んで貴意に応じたい。が、其台湾の恒春とやらに私の地所があると云ふのが、元来私には初耳です」と。》
『パンとペン』によれば蘆花は第二回社会党大会(一九〇七)にも出席し、堺利彦『売文集』(丙午出版社、一九一二年)に巻頭寄稿文を書いているのが分かるが(索引の便利さよ!)、他にもこういうお願いごとをされていた。