福地源一郎『櫻癡放言』(春陽堂、一八九二年一一月二日)。福地がジャーナリズムや政界から足を洗い歌舞伎座の座付作者に専念していた時期の著作。「知恵伝授」「不平の掃溜」「貧乏神」三篇合本。口絵には「知恵伝授」の場面が描かれている。落款は「黄西」(?)と読めるようだが、すぐには該当する画家を探せなかった。
「知恵伝授」の第五回「小説の佳評を得る伝授」は今も面白く読める。愚案軒という自称流行作家が知恵を貸して呉れと訪ねて来る。最近とんと小説が売れないと。
《一昨年ごろまでは十行二十字の草稿一枚を五十銭で書林が喜んで引受たが其後は諸株券の相場と共に段々と下落いたし昨今では小説の雑誌に草稿一枚十五銭で宜しいと此方から安売をしても先方では何とか彼とか辞柄を設けて体よく謝絶すると云ふ仕合》
原稿料の記録は貴重だ。そして流行小説の悪口がつづく。
《先づ其趣向を云へば西洋小説を無理に焼直して日本の事に故事付け其辻褄の合はざる所は左ながら洋食の残肉に人参牛房を切込で献珍を拵えたる如く椀の蓋を明くれば牛酪と味淋の臭がプンとする塩梅其文法を窺へば無暗に…………[ルビ=ポチポチ]を付て紙面はポチ〜[繰り返し記号]の行列》
そして飜訳調のポチポチだらけの小説の例が長々と引いてあるのだが、ほんのさわりだけ写しておく。
《令嬢[ルビ=あなた]は私しに手を授ける事を好みませんで有ますか 令嬢 私しは貴郎[ルビ=あなた]に手を授くる事を拒みません、貴郎…………私し…………真実…………好で有ます?》
こんなもので世上の評判がとれるというのはくやしいじゃありませんか、どうしたらいいんでしょう、と尋ねられた老主人は
《然らば貴君よ流行に搆はず新機軸を出して一家の文章を書き面白い小説を著述し玉へ》
としごく当り前の提案をする。小説家は当惑。
《「ソレハ甚以て六[ルビ=むづ]かしい御注文で》
《「それが出来ずは矢張流行の糟粕を嘗て、…………[ルビ=ポチポチ]、有ります、洋語交りでお茶を濁し玉へ、愚老の知恵も此外には…………[ルビ=ポチポチ]無いで有ります…………[ルビ=ポチポチ]》
いつの世も変らぬ筆は一本の渡世である。