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美の風 vol.6

美の風 vol.6_b0081843_16531321.jpg


『美の風』第六号(「美の風」編集室、二〇一〇年六月一日)。姫路の森画廊が発行している美術雑誌。特集・画家の肖像には、池内紀「黒白の天地ー版画家谷中安規」、戸田勝久「松南先生彷徨」、森崎秋雄「三谷十糸子ーモダーン美への夢」、そして小生の「モランディへの旅」が並ぶ。連載では甲斐史子「和辻哲郎と岸田劉生」に興味をひかれた。


モランディへの旅  林哲夫
 
 大好きだが、どうしても真似のできない絵がある。単純な形だし、奇を衒ったようなタッチでもない。見たままに再現するのはある意味とても簡単のようだ。けれども実は、絵づらをなぞっただけではどうしても届かないところに、本当に真似たいものが潜んでいる。エッセンスをとらえる……とそんな大それたことではなくて、おこぼれにあずかる、そのくらいの下心でもなかなか近寄り難い存在。ジョルジョ・モランディ、恐るべき画家である。

 モランディを初めて知ったのは武蔵野美術大学の学生だった一九七四年から七五年あたりのこと。教室での作画に疲れた、というか飽き飽きしては毎日のように図書館へ待避。のんびり画 集などを眺めていた。のんびりと言っても、性格的にボーッとしているのは苦手なので、とにかく棚に並んでいる画集はすべて開いてめくってやろうというような、ほとんど無益な情熱をもって手当り次第に引き出していたように思う。

 そんな中にそれまでまったく知らなかった絵があった。いや、地方出身の青二才にとってはほとんどが見知らぬ画集ばかりだったのだが、個人的に「なんじゃこりゃ!」と息をのむような絵を数え上げるとすれば、おそらく片手の指でこと足りる、などとうそぶくような自信過剰な学生だった。まあ自分の好みだけははっきりしていたとも言える。その数えるほどの「発見」のひとつが「モランディ」だったというわけである。壜や壷をいくつか並べて、同じような構図 で何枚も何枚も飽きずに描いている。モチーフとなったオブジェの形が溶けて行くというのか、はっきりしているのだが、あいまいなまま提示された、まるで存在の在り方そのもののように表現されているのだ。風景ときてはさらにつかみ所がなく、それでいながら紛れもなく実在の場所を感じさせる。

 その画集はハードカバーの二巻本だった……と永らく信じていた。だとすれば

 Morandi catalogo generale, Lamberto Vitali, Electa Editrice 

でなければならない。ところがこれは一九七七年初版である。ここでどうしても記憶があいまいになってしまう。モランディの実作を初めて見たのがミラノの現代美術館、一九七六年三月だった、これは間違いない。春休みのツアーで初めてヨーロッパを旅し、各地の美術館を経巡った。ミラノの現代美術館はみょうにくっきりと脳裏に焼き付いている。玄関へと続く白っぽいアプローチを辿って館に入り、最初の方の家具調度などが設えられた部屋にモランディの静物が何点かまとめて展示されていた、そういうふうに覚えている。感激してしばらく動けなかった。そしてそれはたまたま出会ったのではなく、そこへ行けば見られると分かっていたはずなのだ。ということは、どう考えても、 最初に開いたのはヴィターリのカタログレゾネではなかったという結論になる。

 では、どの本だったのだろう? 武蔵美の資料図書館のホームページにアクセスして蔵書を検索してみた。すると一九七五年以前に刊行されたモランディについての書物は以下のものを収蔵しているという答えが出た。

 Giorgio Morandi, Lamberto Vitali, Olivetti, 1961
 Giorgio Morandi, le incisioni, A. Ronzon, c1969
 I Maestri del colore v.38 Morandi, Fratelli Fabbri, 1964-69
 Giorgio Morandi pittore, Lamberto Vitali, Edizioni del Milione, 1965

 三冊目のファブリではないことはほぼ確か。実物を手にとれば、はっきりするだろうが、ヴィターリの二冊のように思えてきた。だからどうしたと言われても困るのだが。

 一九八九年から翌年にかけて、神奈川、三重、ふくやま、有楽町、そして京都の各地でかなり大きな規模のモランディ展が開催された。これにより日本の美術ファンの間にモランディの作品が知れ渡る。筆者は京都の国立近代美術館で見たのだが、個人的には今でも最も印象に残る展覧会のひとつである。

 では、それ以前、日本でモランディは展示されていなかったのだろうか? もちろん展示されていた。例えば一九八〇年十月から十一月にかけて弥生画廊がモランディ展を開き、図録を作製して いる。油彩七点(戦後作四点、戦前作三点)、エッチング四点、計十一点出品。図録の巻頭に今泉篤男が「ジョルジオ・モランディ(Giorgio Morandi)について」という文を寄せ、次のように書いている。

《その作品もこれまで余りわれわれの眼にする機会は少なかった。私の記憶する限りでは、1972年、オリヴェッティ社の企画した巡回展「近代イタリア美術の巨匠たち」の中に十数点含まれて、東京都と京都の国立近代美術館で展観された時ぐらいである。》

 そして弥生画廊の展示を《日本にあって初めてのモランディ展覧会である》と断定している。文中に出ている「近代イタリア美術の巨匠たち」展の図録を参照してみると、正確には、モランディは十八点出品されていたようだ。それも初期から晩年まで、デッサン、水彩、油彩とモランディの全体像をコンパクトに示す内容だったことが分かる。質量ともに弥生画廊の展示を しのぐものだが、戦前の作品ばかりでエッチングは含まれていない。モランディは永年、ボローニャの美術学校でエッチングを教えていた。油彩画とはまた別種の独特な作風を築いており、ヨーロッパでの評価はかなり高いようだ。有元利夫のエッチングなどもおそらくモランディの影響を受けている。少なくともモランディ展の直前に同画廊で個展をしているから、間近に見ていたのは間違いないだろう。

 展覧会ではなく図版での紹介ということならば、もっと早く『みづゑ』一九五三年八月号(現代イタリア絵画特集)に登場していた。原色図版一点、モノクロ図版五点掲載。スクオラ・メタフィジカ(形而上絵画派)を中心にした観点から、五点は一九二〇年以前の初期作品、デ・キリコやカッラに 近づいていた頃である。モランディがそもそも世界的な作家になったきっかけは一九四八年のヴェネチア・ビエンナーレで大賞を受賞したことだった。しかも賞の対象となった三点の作品はメタフィジカ時代のもの。『みづゑ』の図版が初期作品ばかりなのも納得できる。ところが実はモランディ自身はそれらの仕事をずっと否定してきた。若気のいたりとでも思ったのか、あるいはもっと複雑な含みがあったのかもしれないが、いずれにせよ不本意な作品群としてひた隠しにしていた。ただし大賞と賞金という世俗的な評価については本人もいたく満足したようである。五十八歳。遅咲きの大輪だった。

 モランディと学生時代に出会って、一九九〇年の回顧展で決定的に打ちのめされた。そし てさらに一九九四年にももう一発ボディブローをくらった。それは日本橋のツァイト・フォト・サロンで開かれた「ルイージ・ギッリ作品展 モランディのアトリエを中心として」である。文字通りモランディのアトリエやそこに放置されたオブジェを撮影した写真展だった。運良く開催時期が銀座での拙作個展と重なって見ることができたのだが、これにはすっかり参ってしまった。会場で販売していた写真集を買った。フランスとイタリアの出版社が共同で刊行した一冊。

 Atelier MORANDI, LUIGI GHIRRI, Contrejour + Palomar Editore, 1992

 これらのうちの幾つかは二〇〇〇年に刊行された『須賀敦子全集』(河出書房新社)の装幀に使われることになる。

 ギッリの写真は絵を作るときのオブジェに対するモランディの心持ちや手付きをさまざまに想像させるものだった。一見、絵とモデルは直接には何の関係もないようにも思えるが、もしそれらのオブジェがなければ、その絵も決して生まれなかったはずなのだ……などと埒もないことを考えつつ繰り返しこの一冊を眺めるうち、当然のごとく、モランディのアトリエを訪ねたいという欲求がムラムラと湧いてきた。

 モランディはイタリアのボローニャで生まれ、母と三人の妹たちとともに、生涯のほとんどをフォンダッツア通りのアパートで暮らした。その一室が寝 室とアトリエを兼ねていた。ようやく最晩年にいたって、死の四年前の一九六〇年、ボローニャ郊外グリッツァーナに別荘を建て、そこに初めて独立したアトリエを持った。最初は渋っていたモランディも、妹たちに押し切られて賛成したのだが、別荘が完成したときには喜びを隠さなかったという(ギッリはそこも撮影している)。

 フォンダッツア通りのアパートにはさまざまな人々が訪れたようだ。隠者のような孤高の画家のイメージで語られることの多いモランディ、実はなかなか社交的で実務的な人物だったらしく、とくに戦後、有名になってからは外国人のコレクターをしばしば迎え入れた。ここではそうなる前の訪問記を引用してみる。

《一九四六年の暑い夏の朝、廃墟ばかりで交通も ままならない中、ボローニャまで彼に会いに出かけた。私はジュゼッペ・マルキオーリのために絵画を収集していた。駅を下り赤っぽい埃の舞うなかで瓦礫をよじ登り、戸をたてた不揃いなアーケードを抜けて、ようやくサント・ステファノ広場、そしてフォンダッツア通りへとたどり着いた。

 当時、モランディの絵を求める訪問者はそれほど多くはなかった。階下の扉を押し開けて中に入ると階段の匂いにつつまれ、次に小さなダイニングの匂い、こざっぱりとした部屋の雰囲気が感じられた。磨かれた家具、ガラスのキャビネットには陶磁器、大きなキャビネットはレンブラントの銅版画「横たわる黒人女」の上に影を落としている。すべてが小綺麗である。礼儀正しく微笑みを絶やさないモランディ は少し待つように言った。彼は私を通してもいいかどうか確認したのだ。

 輝く真鍮のベッド、アイロンのかかったキルティングの上掛け。若者がちらっと見えたが、それは衣裳箪笥の上に置かれたマンズーの小さな頭像だった。ドアを抜け、寝室の奥へ。そこが彼のアトリエである。三メートル半と四メートル半。隅にソファ。窓からはフォンダッツア通りの公園を見下ろすことができる。

 小さなベッド、土色のカバー、絵具がこびりついたイーゼル、床には白墨のマーク、彼の靴の跡か?

 それまで誰もアトリエの写真を撮ったことがなかった。壜、カップ、埃を被ったランプ、箱の山、食器棚、盛り皿。それらはみんな本物なのだろうか? 床に散乱した、あるいは、順序良くまたは陰影で立 体的になるように台の上に並べられた品々は。むき出しで壁に掛けられていたモランディの絵は多くなかった。五、六点。》

 これは『MORANDI DRAWINGS』(FRANCA MAY EDIZIONI, 1978)の英語版に収められているネリ・ポッツアの解説から適当に意訳したものである。ギッリの写真集と比較しながら読んでみると、写真には写っていないものもあって、激動の時代をくぐりつつ着実に仕事をしていた画家の息づかいが感じられるような気さえする。善くも悪くも、ギッリの写真はやはりモランディ歿後の、主不在のアトリエである。

 ボローニャへの旅に焦がれながら何もできない時間が過ぎて行った。ようやくに思い切って決行したのは一九九八年四月である。まずパリで何日か過し、時ならぬ雪さえ降った悪天から逃れるようにイタリアへ飛び立った。ボローニャ空港に降りると、まるで別世界、アーモンドの花が咲きほこる南国の趣だった。

 モランディのアト リエが公開されているわけではなかったが、一九九三年、妹たちから市に寄贈された作品を基にして、マッジョーレ広場に面した市庁舎の中にモランディ美術館が開館していた。ここにモランディの寝室兼アトリエが再現されている。通路からガラス越しに眺めるだけなのだけれど、フォンダッツア通りのアパートから家具やオブジェがそっくり移され、かつての空間を偲べるように構成されているのだ。ギッリの写真集で親しんだ光景が、少々の嘘くささを発しながらも、眼前に展開しているのには、やはりはるばるやってきた甲斐があったと感激させられた。

 もちろんフォンダッツア通りも歩いた。城壁で囲まれたボローニャ市街はそう広くもない。市庁舎から歩いて十分余りだったろう。静かな住宅 街の一角だ。モランディの住んでいたアパートやその界隈の写真を撮ったり、スケッチもしたりしながら、何か腑に落ちない気持ちがしてならなかった。赤褐色あるいは黄土色の壁が風化したような、いかにも絵になりそうな街並である。だが、これはモランディの風景画から連想する世界ではなかった。中世風のそしてバロック風の面影を色濃く遺すこの街から、あのように新鮮な、ある意味フランス風な、灰色の調子のあいまいで湿っぽい空気をもつ絵を紡ぎ出せることが不思議でならない。パリから着いただけになおさらそう思えた。静物画の場合と同じように、モランディは目で見たモノを描いているのではないに違いないが、しかし何も見ていないわけではない。その眼と心の動き方に独特の関係がある。

 イラストレーターのジャン=ミッシェル・フォロンは『FLOWERS BY GIORGIO MORANDI』(RIZZOLI, 1985)というモランディの花の絵ばかりを集めた画集を編集している。そこに収められたフォロンのエッセイは心に沁みるいい文章である。一九七〇年代の初め頃、フォロンは、モランディの五十年来の親友ジーノ・ギリンゲッリの娘パオラに案内されてボローニャ駅に着いた。駅は城壁の外側にある。雪が降り始めていた。二人はタクシーを拾って「ピアツェッタ・モランディへ」と告げたが、運転手はその場所を知らなかった。パオラが色々説明してやっとたどり着いた。

《ピアツェッタに到着して車が停まった。運転手は、われわれが寂れた小さな広場の名前板を読み上げるのをあきれて見ていた。寒さが増してきた。パオラはもっと大きな通りに彼の名前を付けてもよかったんじゃないかと思った。こ れについて一番下の妹マリア=テレサは後にこう語ってくれた。

「兄が死んだとき市当局が目抜き通りに兄の名前をつけたいと言ってきたのよ。でもそれは兄のシンプルなやり方に似合わないわ。しばらく話し合いが続いて、長姉のディーナが、もし当局の意向を受けるなら、フォンダッツア通りのアトリエのすぐそばの小さな広場がいいと言い出したの。それで私たちも賛成したわ。そこは毎朝兄が犬を散歩させていたところですものね」》

 この文章も予め読んでいたので、しっかりとピアツェッタ・モランディも確認し、踏みしめてきた。広場というほどでもない、交差点の角に車が二台くらい停まれるていどの空き地があるだけだった。アパートからは一分とかからない。それでもモランディ の愛犬がここでオシッコしていたんだなあ、などとつまらない感慨にふけったのである(ファンは何でも有り難がる)。

 フォロンはパオラからモランディの最期について聞かされた。ヘビースモーカーだったモランディの死因は肺癌だった。

《「モランディはもう絵を描く体力がないと感じたのね、病気が重いことは分かっていたわ。父は彼からの電話でよくボローニャから電車に乗ってグリッツァーナへ会いに行ってたんだけど、だんだん病が重くなる彼を見るのが辛くて行けなくなったのよ。

 ディーナに呼ばれて最後に出かけたとき、モランディは父にイーゼルに乗っている絵を見せたの。静物だったわ。「これでおしまいだ」そして「これは君のために」と彼は言ったのよ。

 それから何ヶ月かしてモランディは亡くなり、埋葬の日に父ジーノ・ギリンゲッリはグリッツァーナへ出かけたわ、小脇に小さな包みを抱えてね。葬儀が終わると、父は妹さんたちの前へ進み出て、その絶筆の絵を差し出したの。「彼は私の親友でした。でもあなたがたのお兄さんです」とだけ言って、その場からいなくなった。二月ほどして後を追うように父も亡くなったの」》

 あのときどうしてグリッツァーナまで足を伸ばさなかったのだろう。一日つぶせば訪ねられたはずだ。終焉の地ということが全く頭に浮かばなかった。最近読んだ書物によれば、モランディが生きていた頃の片田舎の様子とはまったく変ってしまって、葡萄畑が一面に広がっているそうだ。仮にそうであっても、裏切られる のがモランディ巡礼の宿命、いつの日か是非訪れる機会をもちたいものである。
by sumus_co | 2010-05-27 17:02 | 著述関連
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