野々上慶一『さまざまな追想 文士というさむらいたち』(文藝春秋、一九八五年)。装画=青山二郎、装幀=竹内和重。野々上は文圃堂書店を経営し中原中也『山羊の歌』(一九三四年)などを出版した。ここに興味深いことが書いてあった。チェックが入っているので昔読んだわけだが、すっかり忘れていた。
『山羊の歌』の装幀は高村光太郎である。それ以前には青山二郎がやることになっていた。しかし青山は事情があって姿をくらましてしまい、装幀が間に合わなかった、と青山は『眼の引越』に書いている。ただし装幀の原稿は出来ていたようだ。
《装丁の下書きを青山の友人竹田鎌二郎氏が所持していて、それが出てきたのです。私は大岡昇平の著書『生と歌』のなかの写真版で見たのですが、青山が編纂した図録『甌香譜』のなかの唐三彩の小皿の四弁の花模様を明らかに模写したものと思われるものなのです。(これを青山さんは、後に自著『現の引越』の装丁に使用しています)しかし、何故青山がこれを使ってやらなかったのか、私は知りません》
これは面白い。
十八年後に自著に使ったのと同じ図柄を中也のために用意していた。とっておきのデザインだったのだ。中也はその青山の心を知ってか知らずか『宮澤賢治全集』(文圃堂書店、一九三四〜三五、
十字屋書店版と同じ題字)の題字を書いた高村光太郎に依頼するよう野々上に頼んだ。高村はどちらも装幀料は受取らなかったという。
もうひとつアッと思ったこと。野々上は武田麟太郎とも親しかった。先日の宇崎純一についての講演ではほんのわずかにしか触れられなかったが(かつて中之島図書館で行なった波屋書房と『辻馬車』についての講演ではかなり詳しくのべたこともある)、瀧克則さんが『spin』06号に書いている宇崎祥二がアナキストたちに襲われる事件、その発端になった武田麟太郎のペンネーム「橋本スミ」、それについて興味深い聞書きが出ている。ここにもチェックが入っていて、単純に忘れていただけなのが困ったものだ。
文圃堂が『文学界』の編集を引き受けていた頃、校正が終わって編集室で酒盛りとなった。そのとき武田麟太郎がこういう話をしたという。
《「ぼくは以前、詩を書いていたことがあってねェ、『辻馬車』なんかに載せていた。橋本スミ[四字傍点]という女名前のペンネームを使っていたんだ」「それはまたどうして……」と不審に思い、私はちょっときいた。「それはねェ、ぼくのおふくろは武田スミエといった。このおふくろは、ぼくの少年の頃、貧乏のさなかに死んだが、橋本スミというのはねェ、おふくろが質屋通いの時に使った名前なんですよ。おふくろがなんかの時に質札を落した、それを見た。》
橋本スミにそんな思いが隠されていたとは……。その橋本スミが引き起こした事件についてはぜひ『spin』06の瀧克則「宇崎純一ノート」をお読みいただきたい。