『筑摩書房の三十年』(一九七〇年)に掲載されている《現在の筑摩書房》、千代田区神田小川町二ノ八。
筑摩書房は今年七十周年を迎えた。創業したのは昭和十五年の六月十八日、処女出版である『中野重治随筆抄』の奥付発行日だそうだ(青山二郎の装幀本だが、これは架蔵していない)。『筑摩書房の三十年』を執筆した和田芳恵は《社会通念にしたがえば、創業の挨拶状の日付、昭和十五年一月一日であるべきだとも考えられる》としているが、挨拶状(臼井吉見の文案)にはこうある。
《今回、私は筑摩書房を起し、書籍の出版普及を以て私の生涯の道とすべく決意仕りました》
決意がすなわち創業なのだろうか。普通は会社設立の日が記念日であろう。ただ創業者古田晁には処女出版の日を創業としたい強い気持ちがあったようだ。例えば晶文社の挨拶文には《このたび晶文社という名のささやかな書肆を開きました》とある。これもまた昭和三十六年四月二十五日付けで文芸処女出版に合わせて出されたものだが、だからといってこの日を創業日としているわけではない(創業は前年)。
それにしても古田晁と臼井吉見は高校・大学と相棒だった。中村勝哉と小野二郎の関係にきわめて似ているではないか。出版に限らないにしても、出版は特にふたつの異なる個性がうまく噛み合ってこそ長く続く仕事なのだろう。
筑摩書房創業時の住所は東京市京橋区銀座西六ノ四。昭和十九年十一月まではここだったようだ。以下住所の変遷。
二十年十月 本郷区元町一の一三
二十一年三月 小石川区高田豊川町六〇
二十一年六月 文京区本郷台町九
二十九年 千代田区神田小川町二ノ八
そして現在は台東区蔵前二ノ五ノ三。
ときとして古田晁の名前は古田晃と見紛うことがある。小生自身も以前間違ったので気をつけているのだが、ところがなんと上記の挨拶状には「吉田晁」と印刷されてしまっている(写真版あり)。こんなふうに自分の名前の間違を見逃してしまうことについて、和田は古田自身が自らのことを粗末に扱うようなところがあり、含羞の人だったからだと解釈している。