渡辺英綱『新宿ゴールデン街』(晶文社、一九八六年一二月二〇日、ブックデザイン=平野甲賀、カバー写真=御子柴滋)。この本は最近手に入ったもの。渡辺英綱の名前を知ったのは雑誌『たまや』創刊号(山猫軒、二〇〇三年五月二六日)で、そこで渡辺は『断腸亭日乗』にある「文士辻順」(辻潤のもじり)と遭遇したという一行をタネに昭和初年の銀座カフェーの一夜を再現してみせてくれている。
《渡辺 英綱氏(わたなべ・ひでつな、東京・新宿ゴールデン街のスナック経営者、文芸評論家)23日午前4時45分、食道がんのため東京都渋谷区の病院で死去、56歳。福島県出身。自宅は東京都港区北青山1の6の3の510。葬儀・告別式は26日午前11時45分から港区南青山2の34の1、やすらぎ会館で。葬儀委員長は歌人福島泰樹氏。喪主は妻菜穂子(なおこ)さん。 71年、ゴールデン街にスナック「ナベサン」を開店、多くの文化人が集まり「ゴールデン街の顔」として親しまれた。著書に「新宿ゴールデン街」「国際都市新宿で何が起きているか」。
2003/04/23 10:17 【共同通信】》
『たまや』の原稿が遺作かどうか分からないにせよ、最晩年の一文だったようだ。
巻末資料の一つ、一九八四年頃の新宿ゴールデン街の地図。オレンジの矢印は小生が付けた。本書のジャケット写真が撮られた位置である。「ナベサン」は写真の突き当たり手前左側にあった。となりが「ふらて」。あの
「ふらて」さんか?(旧daily-sumus/2003.3.31参照)。
そして驚いたのが「トウトウベ」。こんなところで出会うとは。何を隠そう(隠さなくてもいいですが)キトラ文庫安田有さんの店、三十歳から十二年間やっておられたそうだ。『ARE』5号(一九九六年五月二〇日)の安田さんインタビューにそう書かれている。改めて読んでみるとこんな談話がある。いつも超満員だったそうだ。
《詰めれば二〇人ぐらい、立ったら三〇人とかね。あまりにヒドイときは、三階があるんですけど、梯子がないと上がれないの。で、梯子持ってきて、ハッハハハ、特等席やね。》
とこのときは不思議な店と思っただけだったが、『新宿ゴールデン街』によれば、青線時代(一九四六〜五八年、非合法で売春が行われていた地域が青線)の店の構造がそのまま残っているためだった。一階がバー、二階が経営者の住居および泊まり客の部屋兼台所、そして三階がいわゆる「ちょんの間(ちょいの間)」で、一畳半ぐらいの部屋が二つあったという。
《一階から二階へは四十五度の急傾斜の階段があり、さらに三階にあがるには七十五度というべらぼうに急な梯子段を使用しなければならなかった。梯子段を上がるというより、この場合、よじ登るといったほうがよりピッタリする。》
小生の学生時代、歌舞伎町に住んでいる(実家があるという意味、時計屋さんだったか)親しい友人がいた。よく遊びに行ったけれど、そこにも急な三階へ登る階段があった。二階はビリヤード場だったと言っていた。彼の結婚式の三次会かがゴールデン街だった。名前を失念したので探せないのだが、この地図よりは少し後の時代である。