『雪まつり』創刊号(京都府立医科大学文芸部、一九四六年三月二五日)、特輯・伊良子清白。一九四五年一月十日に歿した清白の追悼号。清白は明治三十二年(一八九九)同大の前身である京都府医学校を卒業し、昭和十五年には同学の校歌を作詞している。在学中から『少年文庫』(のち『文庫』)に新体詩を発表し新進詩人として知られていた。
同学の一年先輩の俳人佐藤杏雨が学校時代の思い出を寄せている。
《私の印象に遺る伊良子君は中肉中背の色の浅黒い面長な温容の中にもどこか気骨を包むだ一度び相見れば決して忘れないたちの男でした。伊良子君といへば今もなほ其頃の風貌を眼前に髣髴いたします。頭をいつも五分刈りにして折目正しい和服をぞつと着込むで端坐する君の姿が眼に見えるやうです。君は私の放懶に反し能く勉強する方でしたが、居室内はいつも整然と取片付けられ、机上には一塵も留めないといふ風でした。日常生活の上に誰の目にもつく事は一日中幾度び手を洗ふかわからなかつた事でした。良い意味に於ける君の潔癖の然らしめたものでせう。この頃、君はまだ「清白」といふ雅号を用ゐてゐませんでしたが、後年清白と号するを聞き、まことに由ゑある哉と思ひました。》
在学中のペンネーム「すゞしろのや」。
平出隆編『伊良子清白全集』(岩波書店、二〇〇三年)が出たときは話題になった。今はなき河原町の駸々堂(ブックファーストに代わってました!)で手にとったことを思い出す。まあ、手にとっただけで架蔵しないので『現代詩手帖』47卷8号(思潮社、二〇〇四年八月一日)を参照した。これを読んでいると《日記原資料は厖大なものだったらしい》(野山嘉正)とある。一部が全集にも収録されたらしい。『雪まつり』には山田重正が清白の尺牘を引用している記事があってこう書かれている。およそ十二年間に百七十通ほどの書簡が届いたという。
《これらはすべて達筆で刻明に細字を以て認められてあり、葉書一葉に一杯に封書以上の内容が盛られてゐるのが常であつた。字体は稍よみ難いが馴れてゐるせいで困らない。》
よほど筆まめな人物だったようだ。ちなみに京都府立医科大学出身の文系の有名人には北山修がいる。