タテ13cmほどの薄い紙片。Makino氏より頂戴した。メモにこうあった。
《古書の中に挟んであるのを見つけた紙片です。愚考するに、夜行寝台急行に連結されている食堂車の業者が配ったものか? いつごろのものか? 何線か? 尚、挟んであった古書はピエール・デルベ・平林初之輔訳「科学と実在」叢文閣、大正十四年九月刊、定価四円三拾銭でした。》
列車食堂といえば「日本食堂」だが、これは昭和十三年に「みかど」「精養軒」「東松軒」「東洋軒」「共進亭」「伯養軒」の六社を統合してできた会社である。そもそもの列車食堂の起こりは明治三十二年に山陽鉄道がはじめ、経営がうまくゆかずに明治三十四年に神戸の「自由亭ホテル」が引き受けたものという。
神戸の自由亭ホテル(大阪の「自由亭ホテル」=後の「大阪ホテル」とは関係がないようだ)は明治三十年に後藤旅館として開業し「自由亭ホテル」と改めた。同時に「みかど食堂」をも経営して繁盛したためホテルの方も「ミカドホテル」と改名したという。ホテルは三十九年に廃業。神戸駅構内には二〇〇三年まで食堂「みかど」があった。
いろいろ検索してみると「東松軒」は「水了軒」と名前を変えたとしている記述があったが、はっきりとは分からない。現在も盛業中の「水了軒」のホームページによれば、明治二十一年から大阪駅構内で水飴やアンパンの販売をしていたそうで、山陽鉄道、南海鉄道、阪鶴鉄道などにおいて駅売店経営、車内販売を行なうなど手を拡げて、明治三十九年に東海道線線三等急行列車に和食堂車を連結して営業、また南海鉄道難波〜和歌山間で列車食堂を営業しはじめている。とすれば統合六社に含まれていなければならないようにも思われるが、そうではないとすれば、どう考えるべきか。大正時代から水了軒という名前を使っていたのは間違いないようだが。
オークションサイトにかなりの数の「東松軒」のチラシが出ている。明治末ごろから昭和初期までにわたるようだ。はっきりとした年代は不明だが、イラストや印刷の雰囲気からおおよそ推定できる。明治末の東海道線の朝食は二十銭。大正中〜後期には三十五銭、そして四十銭になったようだ。夕食は五十銭。一品料理は三十銭あたりか。
鉄道には詳しくないので推測にすぎないが、おそらく外国の列車食堂などの習慣をまねたのではなかろうか。