『美術画報』554号(画報社、一九二三年八月二三日)。この雑誌は明治二十七年に『日本美術画報』として出発し三十二年六月から『美術画報』と改題、今、調べたところではこの次の号、555号(一九二四年一一月)までは出ていたようだ。次の号まで一年以上の間があるのはもちろん関東大震災のせいである。
554号は震災直前号(といっても神のみぞ知る)。いろいろ面白い記事が出ている。まずは法隆寺に防火設備を備えようという委員会が開かれた話題。
《其工事の一般は法隆寺背後の山に一大貯水池を設け其より水を引いて之れを鉄管で配水する事。尚進んで目下研究中なのはスピリンクラーと称し火災あれば自然的に放水する装置で京大教授で専門家の大井清一、武田伍一の両博士が担当する事になつた、予算十四万円。》
ウィキによれば、この貯水池は昭和九年の大修理の際に設置され、昭和二十四年の金堂火災のときには初期消火に利用されたそうである。
もうひとつ興味を引かれたのは浮世絵コレクター、ゲラン神父の展示会。
《神父ゲランの浮世絵展観 日本に来てから二十一年間一日も浮世絵から離れなかつたローマカトリツクの神父ジエー・エヌ・ゲランさんは虫干しには絶好と見定めた八月一日、所蔵の浮世絵数百点を横浜山手町字見晴し邸宅で行つた。玄関客間食堂寝室廊下と軸や額に仕立られた浮世絵に充たされてゐた。》
こんな神父さんがいたというのは初耳。カトリックなら当然「カトリック山手教会聖堂」の神父に違いない。文久元年12月13日(1862年1月12日)、パリ外国宣教会が居留地八〇番に建てた横浜天主堂がその前身で、同会は明治三十九年に山手四四番に煉瓦造の聖堂を建設するが、これは関東大震災によって完全に破壊された。ということはゲラン神父の住居も、はたまたコレクションも失われてしまったのだろうか。ゲラン神父自身も無事だったかどうか?(横浜の方、調べたら面白いかも、ですよ。あるいはすでに何かありますか。検索ではヒットしませんでしたが)
今、このカトリック山手教会(昭和八年に再建)を検索しながら、その外観の写真を見て、何ともなつかしい思いにとらわれた。東京に住んでいた頃ここへスケッチに行ったことがあるのだ。ごくごく素直にファッサードと塔を描いた。その絵はとっくに手放しているが、わりと好きな作品だったのでよく覚えている。
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トラックバックしてくれた「古本万歩計」さん。古本ブログに楽しみが増えましたよ。
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