岡崎武志氏の新刊『あなたより貧乏な人』(メディアファクトリー、二〇〇九年、装丁=清水佳子、イラスト=Q.B.B)が届いた。岡崎氏らしく文学者からタレントまで幅広く貧乏話を集めて飽きさせない筆致である。東京二十三区内で四畳半の部屋を探すとけっこういい物件(?)があるなどというのは、ちょっと想像できないが、二万円くらいで住めるようだから驚いた(もち風呂もなし、トイレ共同)。
あ、そういえば、何年か前に谷中にある某女史の仕事部屋に何泊かさせてもらったことがあったが、あそこも古い木造アパートだった。窓の外は墓地で……。ああいう物件がまだまだ残っているというのは心強い!
ここに語られている貧乏を大別すれば、成功する前段階としての貧乏と、好んで招き寄せる貧乏があるようだ。金子光晴とか三好達治、石川啄木、ドストエフスキーや内田百閒もみんな後者。大金が手に入ってもパッパと使ってしまう。ハラハラするぐらい無造作。そりゃ貧乏でしょうよ。岡崎氏はそれについてこう断言している。
《しかし、資金を計画運用して、ムダなく合理的に、規則正しい生活を送っているような人が書いた詩なんて読みたくないということだけは、はっきりしている。》
なるほど。
ところで、社会党の委員長で、演説会の途中で刺殺された浅沼稲次郎が取り上げられているが、浅沼の遺体が運ばれたのは《東京深川の庶民が住むアパート。いわゆる同潤会アパートだった》とあるのを見てビックリした。下の写真がまさに東京都江東区白河4-2-11(当時は深川東大工町)にあったその同潤会アパートの内部(第五号館)。
昭和三十五年に刺殺された浅沼はここ(第五号館かどうか分からないが、どの棟も似たような造り)に三十年間住み続けたそうだ。ということは昭和五年から住んでいた。この写真は『洲之内徹絵のある一生』(とんぼの本、新潮社、二〇〇七年)から引用した。そう、洲之内徹がここに住んでいた。東京美術学校の建築科に入った翌年、昭和六年に入居している。十八歳。ここを根城としてまさにプロレタリア美術家同盟に加わって活動しようとしていた(活動していた?)矢先の翌七年七月に、このアパートの自室で逮捕されている。
当時の浅沼はどういう状況だったのか。ウィキによれば日本労農党に参加していていたようだが、昭和七年には社会大衆党に合流し、麻生久の軍部との協力による国家社会主義路線に同調して軍部による戦争政策の支持者となってゆく(桶屋が儲かる式に言えば、これが暗殺を招いた遠因である)。洲之内徹が同潤会アパートに移ったとき浅沼は三十三歳だった。二人の間に何か交流があったのかどうか、気になるところ。
洲之内徹は晩年の三年足らずを、ずっと住んでいた大森を離れて、日本橋蛎殻町のマンションで暮らした。偶然なのかどうか、そこは青春時代の思い出の地、白河の同潤会アパートからほど近い場所だった(距離にして三キロほど)。