中尾務さんより頂戴した『VIKING』705号(VIKING CLUB、二〇〇九年九月三〇日発行、表紙=富士伸子)。中尾さんの連載好調。前号の例会記(神戸)を読むとこういう発言が載っていた。山田稔氏が前号で中尾さんが書いた内容(=島尾敏雄が『VIKING』に間に合わせの作品を載せることについて富士正晴が不愉快に思っていたという指摘)に対して《僕の富士像が少し矯正されてきた》と述べてこう続けている。
《この連載は大変な業績だよ。島さんはどう?」島「島尾さんが笑たの見たことない。週一回ぐらい新開地の横丁うろうろしてお好み焼き屋に行ったりしたけど、店の女の子が団扇で一生懸命火をおこしてるのをじぃっと見るんや、とにかく見る、あの目で露骨にあんなに見たらあかん、アホや」山田「富士さんはこんな感じやった?」島「そらそやな、知らんかったこともあるけど」》
「島」は島京子。同時代の眼とはまた違った目を史家はもつ。たしかにこの連載は貴重なものである。そして同封されていた中尾さんの手紙にこうあったのがうれしかった。
《今月、山田稔さんからの封書に、新聞切り抜きあり。貴兄の図書館と京都を舞台にした作品についての文章でした。「いいこと書いてるね」と切り抜き隅に山田さんが記載。同感した次第。》
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Makino氏より成家徹郎「日中友好の断層ーー郭沫若と文求堂田中慶太郎(下)」(『東方』344号掲載)の複写を頂戴した。そこに京都の文求堂の住所印のカラーコピーが添えられてあった。印の作者は篆刻家・河井筌廬(1871-1945)のようである。非常に均整がとれてスッキリしている。
文求堂田中慶太郎は若き俊才郭沫若を援助し初期の著書を一手に出版していた。その恩義があるはずなのに郭沫若は後年文求堂についてあまり多くを語っていないそうだ。その理由の一端が書かれている。
《郭氏が日ごろへんに思っていることがあった。彼の著作は一版について五百部、印税は一割五分である。ところがそうとう有名になっても再版を出したことがない。一九三六年の夏、金氏と郭氏が慶太郎に会いに行った時のこと。次子震二の葬儀に当っていたので店に居なかった。そこで二人は意外な事実を発見した。印税票を貼っていない『卜辞通纂』を見たのだった。「鼎堂は飯も喉をとおらないほど、かんかんになった」》
印税票(=検印紙)の数以上に増刷するということはままあったようだが、少部数の専門書でもそんな例があったとは意外である。検印が使われなくなってからもう五十年ほどは経つ。ちゃんと契約書を交わしていない出版の場合などは、今もって公称刷り部数と実数との差が気になるのも事実である。