少し前になるが白水社気付で届いた手紙が廻送されてきた。拙著『古本屋を怒らせる方法』(白水社、二〇〇七年)に秋朱之介のことを書いている。その秋が手がけた荘原照子
『マルスの薔薇』(昭森社、一九三六年)についての問合せだった。
発信人は「モダニズム詩人 荘原照子 聞書」を『菱』という詩誌に連載しておられる鳥取の手皮(てび)小四郎氏である。荘原照子という名前に覚えがなかったのだが、問合せの内容にはかろうじてお答えすることができた。同封されていた連載第一回のコピーが上の写真である。そしてそこに荘原照子の小伝が載っていた。かいつまんで引用する。
明治42年1月16日 山口県防府市三田尻に生まれる。
昭和3年 大阪ランバス女学院(現関西学院聖和キャンパス)に入学するも体調を崩し中退。
昭和8年1月 『椎の木』(第三次)に参加。『カルト・ブランシュ』などに作品を発表。
昭和11年7月 『マルスの薔薇』刊行。
昭和20年7月 戦禍を逃れて松江へ至る。
昭和32年 『詩学』12月号が病死と報じる。
昭和42年8月21日 『毎日新聞』都内中央版に
「荘原照子は生きていた」と紹介される。
平成11年10月11日 鳥取市にて歿。
本日、手皮氏より詩誌『菱』167号が届いた。連載第八回である。歌誌『あけぼの』(表紙は「あけほの」)についての考察。荘原照子が十七八歳ころにせっせと投稿していた。大正十五年八月に山口で創刊され昭和四年四月まで三十三冊発行された雑誌だそうだ。
中原中也が三人合同の歌集『末黒野(すぐろの)』を出したのが大正十一年、翌年、京都の立命館中学に転校し永井叔(大空詩人)や長谷川泰子と知り合うことになる。十三年には富永太郎を知りダダ風の詩も試み始めた。そうすると、中也に限らず、短歌からモダニズム詩への道筋というのはあんがい自然なものだったようだ。そして中也と合同歌集を出した仲間の一人、宇佐川紅萩は『あけぼの』にも参加していたという(三人のうちのもう一人は吉田翠泡)。
手皮氏は『あけぼの』を読み解きながら、そこに投稿された作品と後年の小説「マルスの薔薇」との緊密なつながりを明らかにしておられる。未知の作家の足取りを辿る面白さが伝わってくる連載だ。今後も期待しよう。