うさぎを木版画で刷り出した匂袋。和紙を貼り合わせてある。封筒にしのばせたりするため「文香」と呼ぶらしい。まさに頂戴した手紙に同封されていた。どこの製品かわからないが福井朝日堂のHPに同じようなうさぎのデザインが見えている。
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高桐書院の話を先日の図書研でしたところ某氏が内田巌『画家と作品』(高桐書院、一九四八年)を見付けてくださった。「藤島武二先生と私」という一文が印象深い。美術学校時代からヨーロッパ遊学を経て、松田改組(一九三四年)に反対して新制作派協会を結成するまでが、晩年の藤島武二の姿を浮彫りにしながら回顧されている。
《一級下の、猪熊や小磯や、荻須のクラスは、秀才ぞろひで、あまり乱暴な悪童を出さなかつたが、変り種は、永田一修[脩]と大月源二だつた。大月と永田は、二人だけ美術学校内におけるプロレタリア芸術運動への参加者だつた。勿論、私は、一年生の頃、社会主義同盟の展覧会に出品して居り、さうした方面での皮切りであつたが、美校三年以後の私は、全くさうしたことに無関心で、絵ばかり描いてゐた。》
大月源二は小林多喜二の『蟹工船』の装幀を手がけている。昭和三年卒業だから洲之内徹よりは少し先輩になるようだ。
モノクロの口絵が十六点掲載されているが、そのうちの六点がコローである。「コロの芸術について」という論考も収められている。コローではこれらの人物が好きだ。ダ・ヴィンチやラファエロを意識したようなところも見られるが、なんともいえないつつましやかなタッチが好ましい。
《一八七四年(明治七年)二月巴里のアトリエの周囲に灰色の影が佇んだ時、彼は寝台の上でモローに囁いた。『私はどうも空を作る事を知らなかつたらしい。今私に見える空はバラ色で、深みがあり、透き通つてゐる。全く君にも見せたい。その空の下に又素的な地平線が横つてゐる。』
七十八歳の老コロはこの朝、『朝飯は要らないよコロ爺さんはあつちで喰ふからな。』と云つた。実際彼が眺めたバラ色の空に微笑みかけるやうに死んで行つた。》(「コロの芸術について」)
「あとがき」を美術史家の森暢が書いている。《内田君の本のお手伝ひはこれで三回目である。一回目は「作品集」、二回目は随筆集の「物射る眼」》とある。森は高桐書院の編集者だった時期があるようだ。