上野虎雄長篇戯曲『泥沼』(サクラヤ書店、一九二四年六月一〇日)。納涼の二日目、みんなと食事しただけで何も買わなかった。その帰途、市中で時間待ちに某書店に立ち寄って、棚を物色したが、先月ものぞいていたので、さほど新味がなかった。欲しい本はいろいろあったものの、値段が問題だ。待ち合わせの時間がジリジリと迫ってきた。手ぶらで出るわけにもいかない。迷いに迷ってこの本を買った。以前にも見かけていて、気にはなっていたが、裸本で千円以上すると、しりごみしてしまう。今回は大阪の版元だということと、手ぶら禁止の掟(自己規制)により購入。
帰宅してあれこれ検索する。上野虎雄は日本の表現派作家だったらしく、神原泰との『新潮』誌上での論争が有名で、ヒットのほとんどはそれだった。しかし『種蒔く人』(創刊1921〜23)の同人だったり、「カフエライオン鼻つまみ番附」(拙著『喫茶店の時代』参照)にも登場しているなど、大正時代には有名作家・評論家だったようだ。ライオン女給のコメントはシビア。虎にひっかけている。
前頭 上野虎雄(動物園の虎みたいな声を出すから)
そのわりには国会図書館の検索では生没年が記入されていない(生没年の確認にはとりあえずこれが便利)。ということは文学辞典類には載っていないのか?
サクラヤ書店は北区堂島中町一丁目にあった。加藤武雄『廃園の花』、薄田清、川口宏らの書物を刊行している。『胎児』(サクラヤ書店、一九二四年)の広告はこう謳っている。
《創作三篇はいづれも百枚前後。日本的表現主義のスタイルとして、文壇革命の作!個人生活やカツフエの内面に点縮して、この大社会の思潮を、実相を、理想を、矛盾を全幅的に表現せり。》
『泥沼』のごく一部を引用しておく。
江藤 実はそれから、また新しいお願ひがあるんですが
博士 どんな物です。(一寸眼鏡をなほし、上眼使ひに対手を見る)
江藤 今度は、支那山東省の苦力を輸入したいと思ひまして
博士 なる程、欧州戦争から暗示を得たんですね
江藤 さうです。琉球人より苦力の方が遥かに経済的ですから
博士 と仰言ると
江藤 たツた二三十銭ばかりの賃金で一日中使へるんです
博士 いま琉球人の賃金は?
江藤 一日五十銭平均です
博士 内地人は
江藤 内地人は実に高いんです。左様、一円五十銭位でせう
博士 ふむ
江藤 安賃金の労働者がどしどし増えるので、今に内地人の坑夫が泣き出しますよ
いつの時代も結局こういうことである。