名取文雄(表紙の「文夫」は誤り)『インフレーションの経済学』(同人社、一九三三年)。文字力に惹かれた。同人社(同人社書店)は大正四年ごろから昭和十年頃まで出版物があるようだ。マルクス主義関連の本が中心である。だから装幀・文字は柳瀬正夢と言いたいところだが、柳瀬にしては弱い、ねじ釘のサインもないし。
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講演記録「博史とらいてう」(『平塚らいてうの会紀要』2号、二〇〇九年六月)の抜刷りを講演者の築添正生さんから頂戴した。築添さんは平塚らいてう(奥村明、昭和十六年に入籍)と奥村博史の孫(長女の子息)である。らいてうは一九一二年夏に茅ヶ崎で五歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会って事実婚を始めたことで、博史は「若い燕」として当時からさまざまに非難、揶揄されてきたが、その実際の姿はあまり知られていない。
祖父博史について築添さんは真実の姿を探るべく調査を続けている(『虚無思想研究』に連載中)。これは講演だけにコンパクトにまとまっていて分かりやすかった。内容を紹介する余裕はないので、調査のきっかけだけ引用しておく。『伊藤野枝著作集』の月報で瀬戸内寂聴と秋山清が対談したなかで、こんな会話があるそうだ。秋山が、辻潤や大杉栄といっしょになった伊藤に較べて、らいてうはどうかと問うと。
瀬戸内 あれは男が悪かったのですよ
秋 山 男を見る目がなかったのですか
瀬戸内 男運がなかったんですよ
この対話を読んで祖父について調べる気になったそうだ。らいてう自身はこの対談のことを聞いて
「男に求めるものが違うのね」
と言ったという。辻潤や大杉栄の方が男として博史より優れているとは、その末路を考えただけでも、とうてい思えない。見る目あるいは男運がなかったのは伊藤野枝である。野枝はどうみても今でいう「だめんず・うぉ〜か〜」だった。
画家としての博史はそう評価はできない。小生も何点かその作品を見たこともあるが(芝川コレクションにも入っていた)、生真面目な作風ながら輝きは感じられなかった。新劇人として舞台にも立ったそうだが、築添さんは、金工作家・博史の「日本の創作ジュエリーの先駆者」としての再評価を考えておられるようだ。築添さん自身が金工作家の道を選んだのも祖父からの影響だという。
人間ひとたびレッテルを貼られると、それを剥がすのは一苦労する。文章を書く身としては貼られたレッテルの扱いには気をつけよう。珍しく本日の教訓。