宮田重雄『竹頭帖』(文藝春秋新社、一九五九年、装幀=石原龍一)。西日本新聞に連載したエッセイを福原麟太郎が認めて文春の車谷弘に推薦したと「あとがき」にある。宮田がパスツール研究所で学んでいた昭和初年のパリ(昭和二〜五年)、戦後再訪したパリ、息子の晨哉が送って来るパリ便り、戦時中の中国での軍医生活、時事的な話題など、じつに達者な筆致である。
「ルオーに絵を貰った話」を引用してみよう。師の梅原龍三郎から紹介されたパリ在住の福島繁太郎夫妻と親しくなる。夫人は福島慶子である。福島はルオーの早くからのコレクターだった。ルオーが福島のアパルトマンにある絵を手直しにやってくると聞かされた宮田は同席させてもらい助手のようなことをする。
《ルオーの頭は当時から、すつかり禿げていた。六十歳位であつた。その禿げ頭に慶子さんが差出すおしぼりをのつけて、机に向かい、机上に平らにした彼自身の作品ーーそれは裸婦だつたーーに健腕直筆で、筆を加えるのである。黒い強い線を引き……サイエー……という掛声をかける。つづいてすぐパレットナイフをとつて、今引いた黒線を削り取る。こういう手法を何度となく繰り返しているうちに、あの当時の陶器の肌を見るような強烈なマチエール(画肌)が出来上つて行くのであつた。私は傍らに坐り、ルオーの命令で、パレットに絵具をしぼり出す助手の役目をした。》
画商のヴォラールが生活の面倒をみていたが、コレクターとしては福島の他にスイス人の蒐集家があるだけだったという。宮田は帰国する際にルオーに唐墨を贈った。ルオーはそれをたいへん気に入りポケットにも入れず、手にもって帰ったという。そして御礼に絵を贈ると約束した。帰国して三年ほど経ってからルオーから絵ができたと手紙が届いた。ちょうどパリにいた硲伊之助に頼んでも持ち帰ってもらった。それが十号大のガッシュ作品「聖骸布」だった。
「聖骸布」がどんな作品か知りたくなった。しかしルオーの画集などは架蔵していない。かろうじて『現代美術13 ルオー』(みすず書房、一九六四年四刷)があったので、めくってみると、なんとまさに宮田の「聖骸布」が掲載されている。東京個人蔵、48×39cm、グワッシュと唐墨、という説明から宮田に贈られたものだとすぐに分かった。
この『現代美術13 ルオー』月報には高田博厚がルオーの想い出を寄稿している。一九三七年から五七年までの長い付き合いだった。五七年に高田は帰国、ルオーは翌年亡くなっている。目を惹いたのは次の記述。戦後すぐ、高田がドイツからパリに戻った一九四七年頃、
《その頃彼の一家は住宅難のせいか、ロシュフーコー通りのモロー美術館に住んでいた。それから間もなく現在の十二区のエミール・ジルベール通りの豪勢な住居に移った。》
モロー美術館にルオーが住んでいたというのは意外だった。モローはルオーの師匠でもあるわけだから、縁がないわけではないけれど。モロー美術館はモローの旧宅、パリでも屈指の印象的な美術館である。
Musée national Gustave-Moreau
http://www.musee-moreau.fr/