藤井健次郎『普通教育植物学教科書』(東京開成館、大阪開成館、一九〇三年修正四版、初版は一九〇一年)を頂戴した。傷み本だが、木口(こぐち)木版による図版の素晴らしさに舌を巻いた。印刷所は「株式会社東京築地活版製造所」。
同じ系統の教科書として拙著『文字力100』(みずのわ出版、二〇〇六年)では丘浅次郎の『近世動物学教科書』(東京開成館、一九〇八年訂正十一版)を取り上げている。その奥付説明のところに、木口木版は原版または原画から刷版を作ると書いたが、そうした場合もあったかもしれないが、技術的には初めからずっとそうだったとは思えない。
組版はだいたいこんなふうである。挿絵は活字の部分と較べて明らかに印圧が弱いように見えるから、図版と本文を別に刷ったのではないだろうかとも思うが、もちろん実際どうだったかは知らない。緻密な点や線も鮮やかに印刷されている。
中には色刷りも数点見える。色版も木口木版ではないかと思う。
「おじきさう」に炎を近づけて葉片を閉じさせる実験の図。
木口木版は十八世紀末から十九世紀初めにトマス・ビューイック(Thomas Bewick, 1753-1828)が考案したとされるようだ。フランスでは一八一七年に印刷業者のフィルマン・ディド(Firmin Didot)がイギリス人の彫版師チャールズ・トンプソン(Charles Thompson)を招いて以降広く普及し、ギュスターブ・ドレの版画で知られるピザン(Héliodore Pisan)らが現れることとなる。
その木口木版(gravure sur bois de bout)をフランスで学んだのが合田清(1862~1938)で、留学中に画家の山本芳翠に勧められて農学から転向したのだそうだ。合田は帰国の翌年(一八八八)に山本芳翠とともに生巧館画塾を開設して西洋木版画の制作と後進の指導に当った。この教科書の彫師が誰なのかは記されていないが、かなりの腕前と見た。ということは導入十数年にしてこのレベルまで達した職人がかなりいたということである。ちなみに青山学院で合田の長男弘一と同級だった川上澄生はしばしば合田家を訪れ、見よう見まねで版画の技術を覚えたのだという。
明治の教科書はこれまでも何度か取り上げてきたが、初期のあの板目木版の粗雑な(しかし愛らしい)挿絵から明治三十年代のこの驚異的な木口木版の挿絵まで、まさに日本国の大転換を象徴して余りある変化・落差ではないだろうか。