田村泰次郎『肉体の文学』(草野書房、一九四八年、装釘=花森安治)。この間の四天王寺にて。パッと見、花森とは思わなかったが、一癖ある雰囲気だった。
ところで田村泰次郎の『肉体の門』(雪花社)には異装本があることを、今日届いた『彷書月刊』6月号の「古本検定」で知った。裸婦が立っているのと、尻餅をついた姿のと。ネットで検索してみると、昭和二十二年五月刊と十月刊があるようだ。どっちの装幀が先かと申しますと……おっと、これは『彷書月刊』で確かめていただきたい。いや、この古本検定、近来まれに見る特集である。頭の体操どころか、オリンピック並み。みなさま、チャレンジを!
同誌連載で南陀楼綾繁氏が紹介している草森紳一蔵書整理プロジェクトも興味深い。
白玉楼中の人 草森紳一記念館
http://members3.jcom.home.ne.jp/kusamori_lib/index.html
草森は『本が崩れる』(文春新書、二〇〇五年)が出たことで、というか雑誌発表時から、その蔵書の凄さが話題だった。上記サイトには《門前仲町のマンションに遺された蔵書は、推定で約3万冊。帯広の生家に建てられた書庫「任梟盧(にんきょうろ)」に収められたものを加えると、その倍以上にはなると思われます。》とある。しかし、そのくらい(古本に殺されそうなくらい)の蔵書家はけっこう身近にもいるものだ。岡崎武志氏も多分そうだろうし、昨年の勧業館のときに昼食を共にした三人の古本猛者たちが(その日のブログでもちょっと触れたけれど)、「さていったい蔵書をどうしようか」という話題で盛り上がったとき、はっきり言って、内心、驚きを通り越してあきれ果ててしまった。
何にあきれたか、蔵書の数は言うまでもないが、雑食性にも心底驚かされた。むろん雑食というのは他人の目から見てのことで、当人にとっては様々なひっかかりのある貴重な書物群にちがいないのだろう。とにかく諸氏の知的好奇心の果てしない広がりにはもう参りましたと言う外ない。結局、それらの書物は白玉楼ならぬ砂の楼閣のごとく、いずれふたたび砂の粒に戻るのだろうか。余計なお世話ではあるが、ちょっと心配。自分の頭の蠅を逐えって、いや、小生の蔵書などホコリ同然、一吹きです。
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「日本の古本屋メールマガジン・その79・5月25日号」に平井功の原稿が紹介されている。
《今回、単行本に未集録の採録原稿が寄稿されたので、掲載してみようと思います。昭和4年、「英語と英文学」誌(英文學社)に5回に分けて発表された「PoeのAcrostic」という詩論がそれ。連載途中で中絶した原稿のようだし、メルマガに掲載するにはかなりの分量なので、困惑される方もいるかもしれませんが、とにかく珍しい原稿だと思います》
POEのACTROSTICS二章
附、Poe夫人の夫に献げたるValentine詩
平井 功
http://www.kosho.ne.jp/melma/0905/index-1.html