黒岩比佐子『音のない記憶 ろうあ写真家 井上孝治』(角川ソフィア文庫、二〇〇九年五月二五日、カバーデザイン=長尾敦子)。黒岩さんの最初の書き下ろし単行本。その成立については女史がブログでも書いておられるので、ぜひ読んでみていただきたい。
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/
ただ、これは井上孝治伝ではあるが、いちばんの根本には黒岩女史の、聴覚障害者に初めて対したときのショック、それまでの自分自身の無自覚が許せないという強い思いがあって、それがひとつの心棒となってこの著作を貫いている。
きわめて精力的な取材、本になるとも決まっていないにもかかわらず、これだけ打込めるのは驚くべきことである。そこでも女史は井上を知る人々に、ある意味、執拗に、井上と聴覚障害あるいはそれによる差別との関連性を問いただしている。
聴覚障害といえば、松本竣介が思い浮かぶ。その一種独特な孤独な風景を彼の肉体的なハンディと結びつける論考もなくはない。ただ、それは個人差や性差とたいして変らないものではないだろうか。絵画であれ写真であれ「作品」というものは常に鏡である。それを見る者の心が写る。この点に関して本書のなかの次の逸話が印象に残った。女史がフロリダに井上と親しくしていた米国人を訪ねたとき、女史は
《アメリカ人である彼の眼から見て、聴覚障害者である孝治が、日本の社会から差別を受けていると感じたことはなかったか、と聞いてみた》
するとその米国人は、そんなことはまったく意識もしなかったし、孝治が差別を受けていると感じなかったと断言し、こう付け加えた。
《「孝治は自分にすごく自信があったし、自分にできることについても自信を持っていた。差別はあったかもしれないが、彼はそんなことに負ける人間ではなかった」》
これにはまったく同感した。キン肉マンではないが、根拠のない自信こそが、創作の源泉だと小生はつねづね感じているからである。それは黒岩女史があてもなくこの壮大な伝記を書き抜いた、その原動力でもなかっただろうか? 無名のライターが無名の写真家を描く。アメリカや沖縄まで取材に駆け巡る。女史を突き動かしていたのは根拠のない自信ではなかったろうか。
そしてそれが手応えとなって返ってきたとき、自信が根拠を得る。その後の女史の天晴な活躍はまさにここからスタートしているに違いないのである。
とにかく井上の写真が素晴らしい。一瞬の表情をとらえる眼の鋭さは一流である。カルチェ・ブレッソン〜木村伊兵衛というスナップショット、決定的瞬間(le moment décisif )の系統には違いないが、そこには、誰でもない、写真家・井上孝治の「自信」が漲っている。