『ムーンドロップ』11号(國重游、二〇〇九年二月三日)を季村敏夫さんより頂戴した。特集左川ちか。近代ナリコさん他が寄稿。左川ちかの詩はなかなかいい。ウルフの影響があったらしいが、今自分がランボーを読み直しているので、ランボーみたいと思う。
季村さんは「戦前神戸のモダニズム詩人のこと」を寄稿しておられる。これにはすこぶる興味をそそられる。山中幸夫詩集『戴冠式』(塵塚社、一九二七年)を入手したことから、山中幸夫探しが、「ボン書店の幻」のように、塵塚社の幻として、季村さんの前に立ちはだかってきたらしい。
山中幸夫の住所は神戸神田一六〇。現在の神戸市立中央図書館の北方、上祇園町の東南だとか(やまだ書店、藤本書屋があるあたり)。上祇園町には『ゲエ・ギムギガム・プルル・ギムゲム』の発行元エポック社の「エポック神戸支社」があり、そのメンバーである高木春夫、近藤正治らが住んでいた。高木春夫は稲垣足穂と交遊があったそうだ。『ユリイカ総特集稲垣足穂』(青土社、二〇〇六年)の年譜を見ると、足穂も昭和十一年に短期間この近くに住んだ。
《神戸市の西北郊にある夢野という大きな共同墓地に、その片ほとりの二階家に住んでいた》《友だちは日増しに冷淡になり、五円の金を調達する当ても無かった。(「世界の巌」)》
夢野墓地は平野の上祇園町から西へ一キロほど、道(山麓線)沿い北側にあったらしい。当時の神戸市営墓地は春日野と夢野の二カ所だけだった。小生もこの道路を神戸時代によく通ったので雰囲気は忘れない。ところどころ古いタイルを残した連棟の建物が残っており、北側の家並みの後ろはすぐ山になっていた。
山中幸夫の『戴冠式』のまえがきに竹村英郎が出てくるという。竹村については足立卷一『評伝竹中郁』(理論社、一九八六年)に天才的な評論家として紹介されている。高知市の生れで、中学生の頃、講演に来た富田砕花に傾倒し、神戸高商に入ったが、中退、砕花の甥の家庭教師をしたり谷崎潤一郎の助手をしたりしていたそうだ。『竹村英郎詩集』(ポエチカ社、一九三六年)がある。足立の『親友記』(新潮社、一九八四年)では歌誌『あさなぎ』の歌会に登場している。
《きまって竹村英郎の辛辣な評言が人を小バカにしたような口調で飛び出す》
谷崎潤一郎の助手については「
谷崎潤一郎詳細年譜」にも見えている。
昭和四年三月
《京大国文選科生の竹村英郎、富田砕花に師事し、そのつてで週二、三回、校正のため来ていた。》
昭和五年七月
《14日、絹枝宛書簡、鉛筆書き。差出人の名に書生の竹村英郎の名を使っている。》
これだと竹村は昭和四年には京大国文選科生だったことになるが、京大は大正十四年度限りで選科(撰科)を廃止したことが『京都大学百年史資料編1』に出ている。これについては『竹村英郎詩集』に略歴が記されていたので別に記す。