《銭屋惣四郎の初代は享保八年生れで春重といったが、幼少の頃堀川通りにあった書肆銭屋儀兵衛の店に入って業を修め、寛延四年に独立して姉小路通り寺町西入ルで店を開き、主家の銭屋の名前を許されて銭屋惣四郎を名乗り、書林仲間に加入を認められた。ところが二代目春行の時、天明八年の大火が起って類焼した。これによって同家は板木や古い記録をほとんど全部焼失したといっているが、文化二年に再建する時に寺町御池下ル(本能寺前)に新しい土地と屋敷をもとめて移ってきた。》《銭屋惣四郎はその後、竹苞楼を称号として、現在まで営業している。その間、元治のどんど焼きにも焼けて、文化以来の記録や、版木類を多く喪失したようだが、復旧した店舗は、文化再建当時の様子を保存していて、店頭に「出し箱」の看板をおく徳川中期の書籍商の様子を、今日竹苞楼において見ることができるのである。》(脇村義太郎『東西書肆街考』岩波新書、一九七九年)
《先代は着物を着て火鉢を前に座っておられたが、現在は洋服の七代目が座っている。もちろん専門は和本。最近は洋本も少しおいてある。》(全国古本屋地図、1981)