渋川玄耳『支那閨房秘史』(香蘭社、一九三七年八版)。百均でふと手にとって、奥付を見て、ホオ、と思う。発行者が南天堂の「松岡虎王麿」である。
しかも発行者が二人。竹之内米太郎が香蘭社書店の代表だろうか?
香蘭社と言えば有田の陶磁器メーカーだが、名前が同じだけで無関係だろう。大正末ごろから出版を始めて、ほとんどが実用書ばかり。他の書物の奥付が確認できれば、少しははっきりするのだが。
松岡虎王麿の住所と京華社印刷所の住所が同じなので、あるいは、「発行者」と「印刷者」の誤植という可能性もなくはないけれど、ふつう、印刷者は発行者の次席、左側にくるはずだ。やはり発行者でいいのだろうが、ややこしい。
いずれにせよ、松岡は京華社の代表となっていたようだ。森まゆみ女史の「南天堂漂流12」(『ちくま』二〇〇一年一〇月)に《京華社のオーナーは分かっていない》とあり、寺島珠雄『南天堂』(皓星社、一九九九年)によれば、《猪木卓二(京華社社長?)》とあり《昭和2年・一九二七年資文堂発行の『新しき詩の作法』という本の場合、松岡虎王麿は京華社代表ふうに「印刷者」で名を出している》ともある。
また《須藤紋一が京華社から独立した時、虎王麿は行をともにしたのだが、それが昭和7・一九三二年十一月であるのはわかっている》とも寺島は書き、須藤が独立して始めたのは三鐘印刷(神田錦町三丁目十一番地)で、京華社のほとんどの者が三鐘印刷へ移ったという須藤の娘の証言も引用されている。
森女史は《須藤も京華社のほか、「市政人」(昭和七年発刊)を出す市政人社、月刊「生活学校」(昭和十年発刊)を出す扶桑閣と二つの出版社を持ったが、いずれも理想を掲げながら経営は困難であった。そのため京華社印刷所をやめて、あらたに三鐘印刷を自ら起こし、松岡虎王麿もこれに同調したようである》と書いておられる。
しかし、松岡虎王麿は、すでに拙ブログで紹介した
ボードレール『巴里の憂鬱』(高橋広江訳、外語学院出版部、一九三三年)でも《京華社代表ふうに》奥付に名前を出しているし、本書も出てきた(というほど珍しい本でもない)。どちらも三鐘印刷創業以後の発行である。これはどう考えればいいのか。松岡が京華社の代表をつとめつつ、三鐘印刷にも参画していた、というのがいちばん単純な見方だろう。
また『支那閨房秘史』は昭和三年に白永社書房から出たのが初版らしい。白永社書房は昭和三年から十年までの刊行物があるようだから、おそらく、廃業にともなって香蘭社と京華社が紙型を買い取ったものか?
渋川耳玄では他に『支那仙人伝』(白永社版一九二八年、香蘭社版一九三五年)も確認できる。香蘭社と京華社の関係も気になる。