昨日言及した『史学界』がたしかあったな、と思って、めぼしい箱を開けると、ピンポーン! 今日はイッパツで発見した。三巻六号(冨山房雑誌部、明治三十四年六月五日)。巻頭は高桑駒吉「日本書紀及姓氏録に見えたる呉国の考」。高桑は歴史学、東洋史が専門で早稲田大学で教鞭を執っていたもよう(『早稲田大学百年史』に何度も名前が出ているが、未確認)。大正期には東洋大学の講師も勤めたようだ。次に本多辰次郎「奈良朝に於ける神仏調和」、そして三番目に森本樵作の論文「新田義宗の終焉に就て」が載っている。
新田義宗は新田義貞の三男。兄たちとともに足利尊氏(北朝)に対して叛旗をひるがえしたが、成功しなかった。敗走を重ねたため、その最期ははっきりしていない。ウィキにも諸説が並べられている。それについて森本は、主に「新田神社由緒書」を拠り所として、以下のように結論付けている。
《義宗は正平二十二年[1367]戦破れて出羽羽黒山中に匿れしが明徳四年[1393]六月伊予に渡り応永十二年[1405]十一月十五日行年七十四歳にして宇摩郡下山村柴生村幽谷の間に卒しぬ》
森本が愛媛県の東伊予出身者だけに土地に明るい考察がなかなか鋭い。で、この雑誌の口絵写真に「本誌の在京編纂員」という集合写真が載っているのだけれど、残念ながら、誰が誰なのか明記されていない。このなかに高桑はもちろん森本樵作も写っているはずだ。そうそう、小川一真の写真版である。