島田庸一編述『小学博物金石学,下』(梶田喜蔵、北村幸太郎、前川善兵衛、一八八二年)。下卷のみ200円だった。本文は木版刷、貼り込みの図版は銅版画に木版刷(?)の彩色。雲母(キラ)で表現しているのが注目に値する。この書物については
「明治の鉱物学教科書(和本)に影響をあたえたドイツ鉱物学書について」に触れられている。
《明治14年(1881),小学校教則綱領が制定され,小学中等科・高等科に「博物」が置かれ,その一科として金石(鉱物)が選ばれた。教科書は明治19年の小学校令で文部大臣の検定したるものに限ると定められたが,それ以前は自由採用の時代であり,金石に関する教科書が和装本で次々と刊行された。》
《博物学に図は欠くことができない。これらの教科書でも鉱物結晶の説明に図を加えるものが多く,中には彩色を施した印象的な教科書も作成された。島田庸一編『小学博物金石学 附金石一覧図』(明治15)や大坪源造訳『金石一覧図解』(明治16)はその代表例である。両者の彩色図に注目するなら,鉱物の配列こそ異なるが類似しており,共通の源流となる原本の存在を指摘することができる。
その共通の原本は J.G.v.Kurr(1798-1870)の Das Mineralreich in Bildern(1858)と考えられる。博物学がアマチュアの学問であったにふさわしく美しい図を備える,ヨーロッパ初の鉱物図鑑であった。》
その1858年版の図版をネット上で探してみたら、こういう感じである。印刷はリトグラフとのこと。
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百万遍まで写真を撮りに出かけ、ふと見た吉岡書店の均一台でボリス・ヴィアンのペーパーバック『日々の泡 L'écume des jours』(10/18、1995)をゲット。バスで二条まで下がって、水明洞へ。ソムリエ氏とバッタリ。立ち話。「本を買い過ぎて、冗談じゃなく、家が傾きそうや」とのこと(それでもちゃんと袋をさげてはりました)。
川端のところでブへ向かう氏と別れ、尚学堂をちょっとのぞいた後、麩屋町をずっと下って帰宅。寺町と二条の東南角、梶井基次郎の「檸檬」で知られる果物店・八百卯が閉店していた。一月二十五日をもって閉店とのこと。明治十二年創業というから『小学博物金石学』よりも先輩だった。
柳居子徒然に詳しく触れられている。
阪急のある駅で電車のドアが開くと、車椅子に乗った丸坊主の白人青年(アメリカ人?)、軽快な椅子さばきでヒョイと乗ってきた。電車が動き出してしばらくすると、彼の携帯電話が鳴り出す。シャッと取り出して、「もしもし、はいはい、だいじょうぶやがな」とじつに流暢な関西弁でしゃべりはじめた。次の駅に着くと、さっと飛び降りるように出て、人ごみのホームをスイスイと、歩くよりよほど速くエレベータまで到着、上階へ消えて行った。