大阪府立今宮中学校々友会『交友会報』(大阪府立今宮中学校、一九二〇年)。これは珍品と思う。というのは、藤沢桓夫および小野勇の紀行文が載っており、さらに学生の名簿には武田麟太郎、林広次(秋田実)の名前が見えているからだ。藤沢の文章も上手だが、小野勇(小野松二の弟)はすでに新感覚派につながるような文体を駆使している。「城の崎ー生野ー大阪」より最後の一節。
《旅の終るべき最終の列車は来た。乗り込んだ。
やがて姫路駅についた。こゝで乗りかへて、汽車は大阪へ走つた。
舞子、明石、須磨、錯綜した駅名の列挙は終わった。大阪は来た、梅田で分かれた人々の上に、駅頭の時計が六時半を指してゐた。》
「新感覚派」という言葉が現れるのはまだ少し後になる(大正十三年)。大阪の中学生はなかなか進んでいた。
教師陣の写真も出ている。藤沢桓夫が『大阪自叙伝』(中公文庫、一九八一年)で今宮中学の教師をなつかしく回想しているなかに、英語の内田勇助と国漢の驪城卓爾のことが触れられているが、前列右から四人目が「河馬」こと内田教諭。そして、カルピスの「初恋の味」というキャッチコピーを案出した驪城は下の拡大写真(上から二段目右から三人目)。
《当時三十五、六歳だったと思う。小柄で神経質で短気な一面もある人だったが、優しく整った目鼻だちのその顔色は蒼白く、鼻下にチョビ髭があり、やや長めの黒い頭髪はいつももじゃもじゃと乱れていた。きちんと七三に分けているのが半数といった当時にあって、既にこのもじゃもじゃ頭が一風変わっていた。》
悪童たちは「チャップリン」という異名をつけていた。文中《きちんと七三に分けているのが半数》という表現は思い込み。この写真だけから判断するかぎり、坊主頭が半数以上で、七三分けは数人にすぎない。チョビ髭も同じくか。驪城は藤沢桓夫のクラス四ノ三の担任でもあった。