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小詩集

都合により一週間ほどブログを休みます。

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西本昭太郎『小詩集』(エバンタイ・クラブ、一九五四年一月)を昨日の市内ツアーで発見。高橋輝次の古書往来「中村隆と『輪』の詩人たち キー・ステーションとしての古本屋、そして金物店」によれば西本は兵庫県庁吏員である。だから兵庫県土木部に勤務していた光安義光とも親しかったのだ。

詩誌『粒』No.3(粒の会)
http://sumus.exblog.jp/19970544/

季村敏夫『窓の微風』(みずのわ出版、二〇一〇年)によれば西本は『粒』の他に『炎』(炎詩話会、一九四六年創刊)や『幻想』(伊勢田史郎、一九四九年創刊)を編集し、『クラルテ』(山本博繁、一九四七年五月創刊)や『Menu』(エバンタイ・クラブ、一九五〇年一〇月創刊)、『阿』(阿の会、一九六三年一月創刊)に参加していた。

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別刷りの挨拶文には《作品は昭和二十二年から昭和二十八年までの七年間にMENU, CLARTÉに主として発表したものを年次別に収録いたしました》とある。

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奥付には《本文製版 西本昭太郎》としてあるから、西本自らガリ切りをしたということになるのだろう。

西本昭太郎の著作

小詩集 エバンタイ・クラブ 1954
庶民考 エバンタイ・クラブ 1956
頬を裂く 粒の会 1957
庶民考第2部 粒の会 1958
冬の座から 粒の会 1959
庶民考第3部 粒の会 196O
近況 粒の会 1968
薔薇の灰 粒の会 1972
流れのまゝに 粒の会 1976
私信 粒の会 1980
西本昭太郎詩集 日本現代詩人叢書第70集 芸風書院 1982

詩集としては印刷も良くないし、ノドの開きも悪く、粗末な体裁だと言っていいだろう。西本の詩そのものもやや甘い。しかし、この何とも言えない佇まいからは詩に対する特別な思い、詩集を上梓する深い喜びがはっきりと伝わってくる。それこそが最も大事なメッセージなのかもしれない。

ついでながら廣田善夫のエバンタイ・クラブからは桑島玄二『少ない雨量』(一九五五年)も刊行されている。
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by sumus_co | 2013-10-19 20:23 | 古書日録

牧野伊三夫展ツアー

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個展終了でとりあえず一息ついた。来週はまた少々ドタバタしそうなので、本日市中を一回り。まずはメリーゴーランド京都で牧野伊三夫展。上の写真の真ん中に写っているコラージュ(+ペインティング)が渋くて実に良かった。展示はどれも抽象的な作品だった。

バスで河原町通りを北上し今出川で下車。善書堂の均一をのぞき、歩いてWEスペース下鴨・ギャラリー&カフェへ。知人が参加している「5つの表現展」を見る。通りから奥まった隠れ家風になっており、花々が咲き乱れる庭を眺めてゆったりできるスペースだ。

出町柳まで歩いてバスに乗り、白川通りまで。久し振りのガケ書房で牧野伊三夫展。こちらは具象的なスケッチ風の作品が中心。写真が一点あって、これがまた欲しくなるほどの逸品。

来年の花森安治カレンダーの表紙が素晴らしく、これも欲しくなった。結局は店内の古本棚から詩集一冊求めただけでガマン。牧野さんの題字とイラストのフリーペーパー『飛騨』と『雲のうえ』をもらう。活版刷の絵葉書は購入。

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善行堂へ立ち寄る。主人不在。遠路、鹿児島へ出張中だとか。奥さんとしばし雑談。三本松という地名が出て来てびっくり仰天。

二条通へ回って水明洞を見る。珍しく何も買わなかった(!) そこから目と鼻の先のブックカフェ&ギャラリー・ユニテ UNITÉを訪問。二条通りからわずかに北へ入ったビルの奥にあるが、扉を開けると別世界の感じだった。右手ギャラリースペースには絵の他に陶芸、木工などの作品が常設されており、中央に書棚、左手がカフェである。神戸の個展に来てくださったご主人としばらく談話。

ユニテから南下。ユニテのご主人に頂命寺の境内を抜ける道を教えてもらう。仁王門通りに出て川端通りの手前で左折(南下)。町家のギャラリーnowakiでまたまた牧野伊三夫展。こちらはスケッチと抽象性の強い作品と両方並んでいた。小物もいろいろ。

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牧野伊三夫展ちらし
http://chirashcol.exblog.jp/18705616/

最後にアスタルテ書房まで足をのばしてみた。残念ながらまだ「緊急入院」の張り紙はそのままだった。

          ***

海文堂書店の平野さんがブログを移転して再開しました。

ほんまに日記
http://hiranomegane.blogspot.jp
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by sumus_co | 2013-10-18 20:38 | もよおしいろいろ

最新理科教科書 理科篇

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秋山鐵太郎+高橋章臣『最新理科教科書 理科篇』(東京宝文館、一九一三年一二月五日訂正三版)。木口木版画の挿絵にひかれて購入。サインの入っている絵が三点(すべて人物画)、「修?」。

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光の直進


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水の濾過


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羅針盤


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石炭瓦斯


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陶器
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by sumus_co | 2013-10-17 21:05 | 古書日録

個展終了いたしました

無事終了いたしました。みなさま有り難うございました。

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「少女(マレ)」、「樹(プラタナス)」

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「少女(ランビュト)」

                  *

12日15時より会場にて作家トーク「東京1978」無事終了しました。連休の初日、貴重な時間を割いてご来場いただいた皆様に深謝いたします。

トークの様子はこちら=http://nabequest.exblog.jp/20573669/

トーク後のパーティの模様はこちら=http://nabequest.exblog.jp/20573346/

                  *

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「自画像」、武蔵美に入った一九七四年の冬から翌年の正月にかけて完成させた作品。十九歳のころ。竹橋の近代美術館に常設されていた靉光の「自画像」が好きだったので、多少そんな風なところも見えなくもないが、靉光よりはずっと大づかみなタッチで勢い良く描いている。

                  *

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海文堂書店で出会ったという父母をもつ生後8ヶ月のお客さまです!


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ギャラリー島田
http://www.gallery-shimada.com/index.html
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by sumus_co | 2013-10-16 22:14 | 画家・林哲夫

スペクタクルの社会

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ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』(木下誠訳、ちくま学芸文庫、二〇一〇年四刷)読了。オザンヌ書店の目録でオリジナルの図版を見て興味をもった。海文堂書店に注文して入手したもの。

ギー・ドゥボール
http://sumus.exblog.jp/20720111/

ギャラリー島田でこの『スペクタクルの社会』を読んでいたら「林さん、シチュアシオニストですか?」と声をかけられた。「え? まさか違いますよ」と答えてはみたもののシチュアシオニストって何?というのが心の声だった(まだ途中までしか読んでいなかった。ただし、こういう問いかけに対しては常に否定で答えるべし。本書の解説まで読んで納得)。

「スペクタクルの社会」は社会はスペクタクル(見世物)だという、いかにも映画から出発したドゥボールらしい理論(というほどのものでもない、世界解釈とでもいうべきか)。一九六八年の五月革命に影響を与えたと言われているが、この内容で影響が与えられたのなら、よほど当時の学生や労働者は鬱積したものがあったとしか思えない。

文明論としてはいいところ衝いている。しかし運動となるには尖りすぎだろう。ドゥボールの基本的な考え方は「分離」である。スクリーンの前の観客たちに横のつながりがないように、現代社会に生きる個人はスペクタクルに目をくらまされ本当の生から分離(個別に疎外)されている。それにより権力は社会を容易に操作することが出来る。まさか世の中そんなに単純じゃないだろうが、ある種の先見性と言うべきかどうか、たしかに五十年前の世界よりも現在の世界に対しての方がよりいっそうぴったり当てはまる指摘もある。

《近代的産業にもとづく社会がスペクタクル的であるのは、偶然でもなければ、表面的なことでもない。そうした社会は本質的にスペクタクル主義的なのである。支配的経済のイメージであるスペクタクルにおいて、目的は無であり、発展こそすべてである。スペクタクルがなろうとしめざしているものは、己れ自身以外の何ものでもない。》

ドゥボール(一九九四年に自死)がスマホに支配されている現代人を見たなら、それみたことかオレの言った通りになっているとうそぶきそうだ。

《スペクタクルにおいて、世界の一部がこの世界の前で演じられ[=代理-表象され(se représente)]、しかもそれはこの世界よりも優れたものなのである。スペクタクルとは、この分離の共通言語にほかならない。観客どうしを結びつけるものは、彼らを孤立状態に保つ中心自体に対する彼らの不可逆的な関係だけである。スペクタクルは分離されたものを一つに結び合わせるが、分離されたままのものとして結び合わせるのである。》

《観客が凝視すればするほど、観客の生は貧しくなり、観客の欲求を表す支配的なイメージのなかに観客が己の姿を認めることを受け容れれば受け入れるほど、観客は自分自身の実在と自分自身の欲望がますます理解できなくなる。活動的な人間に対するスペクタクルの外在性は、客観の身振りがもはや彼自身のものではなく、自分に代わってそれを行っている誰か他人のものであるというところに現れてくる。それゆえ、観客はわが家にいながらどこにもいないような感覚を覚える。というのも、スペクタクルはいたるところにあるからである。》

ネット、スマホ社会にこそこれらの指摘はよりいっそう似つかわしい。ただ、ではそれをどうするのか、ということになると、まったく弱い。弱いというよりもドゥボールの説くプロレタリアートによる革命というものがスペクタクル社会のなかでそのまま自縄自縛に陥ってしまうのである。

シチュアシオニスト、これは以上のような状況を脱すべく実践活動を行う活動家の意味である。転用[détourment、方向を変える]という言葉がキーワードになる。ただしかし、この実践活動はある意味で文化的テロ、その昔ダダイストやシュルレアリストが行ったことと似通った(当人たちは否定するだろうが)かなり子供じみた行為である(例えば落書きだとか)。しかも仲間割れがひどい。除名のオンパレード。

結局彼らは最後には自らの理論で自らを終わらせることになる、というか、スペクタクルではない世界というものはしょせんこの世では成り立たないのである。映画を否定して映画を撮ることができないのと同じである。映画でないなら映画じゃないし、映画なら映画を否定できない。ジレンマ。

《七〇年に入ると、SI[シチュアシオニスト・インタナショナル]内外での行動の欠如と観念論的議論の沸騰が著しくなり、SIはこれに抗して、沈黙という武器で闘い、さらに、もはやSIの理論の普及の役割を果たさなくなった機関誌の刊行を中止した。》

《ドゥボールらはSIが「最後の形態の革命スペクタクル」とならないように、SIを破壊する闘争を開始する。》

自壊して終わるように運命づけられていた。
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by sumus_co | 2013-10-15 20:59 | おすすめ本棚

ナシヨナル第二

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『ナシヨナル第二 NEW NATIONAL SECOND READER.』(吉岡平助、一八八七年三月一八日再版御届)。以前、細川平助発行の『ナシヨナル読本第二』を紹介した。本書はそれとほぼ同じ内容(元版の複製なので同じなのは当たり前)ながら細部が少し違っている。また、この吉岡版は質的には細川版より劣る。挿絵の木口木版もあまり上等とは言えない。

『ナシヨナル読本第二』(細川芳之助、明治二十一年第三版)
http://sumus.exblog.jp/4545371/

『ナシヨナルニユーリーダー』第三
http://sumus.exblog.jp/5945002/

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明治二十年頃に英語リーダーが競って発行されたのは明治十九年に高等小学校で英語が正課と決まったからである。そこでいろいろな種類の英語のリーダーが発行された。これは西洋人の生活習慣が一般に広く普及するかなり有効な手段となったのではないかと思われる。

中にひとつ興味を引く挿絵があった。ちょっと変ったサンタの挿絵。

《Mamma was putting Milly and May to bed, the night before Christmas, and she told them this story.
 "After little children are fast asleep, the good, old Santa Claus comes down the chimney with a great bag of toys."》

元版ももちろんこれに相応する挿絵だったのだろう(?)。なんともビミョーな姿である。サンタというよりナマハゲ?

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日本で初めてクリスマスが祝われたのは何時か? 

『彷書月刊』二〇〇五年一二月号「特集・明治のクリスマス」によれば、日本人だけの手になるクリスマスは明治十二年十二月二十五日に横浜公会で初めて行われたという(山本秀煌)。また明治七年には原胤昭(十字屋の経営者)が東京第一長老教会で受洗した記念として築地大学の宣教師カロゾルスの指導を仰いで行っている(『植村正久とその時代』)。

また明治十二年十二月四日付け朝日新聞には二十五日は耶蘇の大祭日なので信者を川口天主堂に集めて行事をする旨の記事が出ているという。同紙上では明治二十五年に東京の菓子店壺屋が「クリスマスお菓子」の広告を載せたのが「クリスマス」という言葉の初出だとも。記事に現れたのは明治三十二年だそうで「基督萬寿(クリスマス)」、またツリーのことを「クリスマス吊」と書いた。

原胤昭回顧談(前出書)によればサンタクロースも登場した。

《それから、サンタクロースだが、これは是非純日本風の趣向でやらうといふので、裃をつけ、大小を差し、大森カツラをかぶり、殿様風の身拵へ厳しき扮装にして、さて、そのサンタ爺さんの役をつとめたのは、誰あらう、戸田忠厚其の人であつた。》

殿様姿のサンタクロースも異形と言えば異形であろう。

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巻末の大売捌所一覧。
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by sumus_co | 2013-10-14 21:17 | 古書日録

ハーディ 人生の書 

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ハーディ『人生の書』(日高只一編、南北書園、一九四六年八月二五日)。装画が松本竣介。先月末の大阪巡りのときにかっぱ横丁で求めた。

かっぱ横丁では梁山泊の百円均一がなくなってしまって、ずっと淋しい思いをしていたのだが、三冊二百円のワゴンが別の店にあり、いつも文庫ばかりなので素通りしていたのを、ちょっとのぞいて見たら、これが出ていた。抱き合わせの他二冊もいい具合にすぐ見つかった。『人生の書』、すでに同じタイトルを一冊持っている。しかしこれは確保しておかねばならない。松本竣介装幀では下記の本も紹介した。

小林龍雄訳『ふらんす短篇集1』(南北書園)
http://sumus.exblog.jp/12085318/

編者の日高がサウス・ウェセックスのドーチスタ(ハーディの物語の舞台となった地方)およびそこに居を構えるハーディを訪問したときの様子を描いたエッセイも収録されている。なかなか面白く読んだ。

《夫人に丁寧に迎へられ、席をすゝめられて、暫く対座して、種々と世間話をする。
 其処へハーディ翁自身が二階から下りて来られた。僕は其影を見ると思はず直ぐ席を起つた。八十有余の老大家、背が低くて、稍横に張つた体を、年の勢か、足したどたどと運んで来て、僕の前に立たれた、脳天は禿げて、周囲に残る髪は白くむしやくしやしてウェセックスに有名なヒースを思ひ起こさせる。静かに落ち着いて、而も力に、光に、暖さに輝く眼は枯草のやうな眉毛の下から覗いてゐる。懸崖から垂れる白いヘザーの様な口髭の下から静かに唇は動いて
  Good day, I am glad to see you.
と実に懇ろな挨拶の言葉に、出される手は皺がよつて、骨が太く、指が短い、翁が建築師であつた名残だなと昔を偲びながら、当方も初対面の挨拶から、招かれたお礼を述べながら手を出すと、暖かに握られる其手は年の勢か顫へてゐた。》

日高は仲介者なしに直接ハーディ宛に手紙を出して訪問を願っていた。普通なら返事はもらえないところだが、夫人から招待の手紙がホテルに届き、運良く会うことができた。こういう時は手土産が気になる。

《贈物の印として、友人に画いて貰つて、持つて来た日本画の扇面と豊国の浮世絵とを贈つた処が、それが非常に気に入つて先ずそれが話題となる。
「此絵は調子が非常に落ち着いてゐてよい、少しも浮はついてゐない、シムプルの中に含蓄がある」》

お土産のおかげか話がはずみ、ハーディの作品が日本で翻訳されているかどうかという話題になる。

《日本で私の作を読む者がありますかね」
「え、大分あります」
 心には難解の為か、さう沢山読む者がないといふ事を知りながらも、話のはづみで斯う答へざるを得なかつた。
「私の作の日本訳がありますか」
「短篇物は少しあるやうですが、長い物はまだないやうです。否、テスが半分だけ訳されて、後半だけ残つてゐます。実に惜しいと思ひます。》

ハーディは一九二八年に八十八歳で歿した。日高の訪問は一九二二年だから半分だけの翻訳というのは『テス : 運命小説. 前編』(山田行潦訳、文盛堂, 明治四十五年六月)を指すのだろう。しかし、この訪問の少し後で平田禿木訳『テス』(国民文庫刊行会)上巻(大正十四年)下巻(昭和二年)が出て、さらに続けて宮島新三郎訳、広津和郎訳、竹内道之助訳、石川欣一訳、山内義雄訳、井上宗次・石田英二訳、大沢衛訳、中村佐喜子訳、井出弘之訳、小林清一訳、田中晏男訳、高桑美子訳とごく最近まで翻訳はとぎれることがなく、『テス』の人気は素晴らしいと言わざるを得ない。今ならハーディに対して「そりゃもう、ずい分あります!」と胸を張って答えられるだろう。

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この本に張られているレッテル。アベノの天海堂書店は「古本屋タレコミ情報」によれば二〇一〇年頃まで営業していたようである。
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by sumus_co | 2013-10-11 21:01 | 古書日録

第6回「小さな古本市」メリーゴーランド京都

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お元気ですか?
メリーゴーランド京都は、この秋で6周年を迎えます。そして、毎年ご好評をいただいている「小さな古本市」を今年もまた開催したいとおもいます。絵本・読みもの・画集・詩集など、とっておきの本が、贅沢にも二日間だけメリーゴーランド京都に集まります。誰かが読んだ一冊の本を、別の誰かがあたらしい気持ちで、また懐かしい気持ちで、手に取る・・・。古本を見ていると、本の不思議な運命のようなものを想わずにはいられません。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

○開催日  2013年
10月13日(日)10:00~19:00
10月14日(月・祝)10:00~17:00

○会場   
寿ビル5F ギャラリーギャラリー(メリーゴーランド同フロア)
〒600-8018 京都市下京区河原町通四条下ル市之町251-2 寿ビル5F
電話 075-352-5408

オコリオヤジ改め「ぺるデュ書店」として出店します。先日の『季刊湯川』を五冊揃えるために余分に購入した数冊など、今回は渋めを出すつもりです。
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by sumus_co | 2013-10-10 21:42 | もよおしいろいろ

ママの遺したラヴソング

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「ママの遺したラヴソング A Love Song for Bobby Long」(シェイニー・ゲイベル監督、二〇〇四年)。スカーレット・ヨハンソン(ジョハンソン)主演。母親を知らずに祖母に育てられた娘。母の死を知らされ母が住んでいたニューオリンズへやってくると、母の家にはむさくるしい男二人が住んでいた。

画家のフェルメールを描いた作品「真珠の耳飾りの少女」(二〇〇三)でスカーレットの顔を覚えた。ヨハンソンという名前の通り父方がデンマーク系。母方がユダヤ系とのこと。そしてその後で見た「モンタナの風に抱かれて」(一九九八)にチャーミングな子役として出ていたのに吃驚し、「私がクマにキレた理由」(二〇〇七)でベビーシッターを演じていたのも彼女だったのだと改めて知ったしだい。

上の写真は母親の遺したトランク。本はこれだけ。娘は売り払うといいながら、駅の待合室でそのなかの一冊を読んでしまう。

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そのタイトルはカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人 The Heart is a Lonely Hunter』(一九四〇年、河野一郎訳の新潮文庫は一九七二年刊)。一九四〇年の大ヒット小説。グレアム・グリーンはフォークナーよりマッカラーズが好きだと公言しているそうだ。彼女は第二次大戦後ずっとパリに住んでいた。

母に誰かから捧げられたこのペーパーバックを読んで娘パースレーン(ヨハンソン)は男たちの家に戻って同居することを決意。奇妙な生活が始まる。

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初老の男ボビー(ジョン・トラボルタ)は元ハーバードの英文学教授、いわくあって南部へ落ちて来た。いっしょについて来た教え子のローソン (ガブリエル・マクト)に小説を書かせようとしているが、どうもはかばかしくない。ところがローソンはパースレーンがやって来てから少しずつ変り始める。

トラボルタは器用にこなしているもののどうも適役とは思えない。ヨハンソンも悪くはないが、なんとなく役柄とは似合わないような気がする。ブルーズ演奏もやや取って付けたような感じ。結末もほぼ最初から見えている。ヨハンソンを鑑賞する映画というところ。

登場する本の姿はなかなかいい。
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by sumus_co | 2013-10-09 20:09 | ほんのシネマ

夢の口

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宇佐見英治『夢の口』(湯川書房、一九八〇年四月一五日)。湯川書房の在庫を預かっておられた方より段ボール一箱まとめて頂戴した。ギャラリー島田に送られて来た。個展会場に来られた方でご希望の方に頒けてください、ということである。有り難い。小生が画廊にいる時に声をかけてくだされば呈上します。

これも洲之内徹と宇佐見英治がどちらがどうかという問答から飛び出た駒のようなものである。『季刊湯川』連載の四篇はここにまず収録された。他には「コスモスの顔」「樹と岩」「死者の書」(『同時代』)、「多生の旅 一、二」(『世界』)、「夢の口」(『白井晟一研究』)。

やはりどう読んでも洲之内徹の上を行くとはどうしても思えない。ただし初めて読んだときよりも宇佐見の文章や考え方に馴れてきた。二者を単純に比較しても始まらないと納得できるようになった。ただ例えば「多生の旅」のこんな表現にはどう反応していいか分らないというのが正直なところ。

《美は存在の裂傷である。本郷隆ほどその痛みを肌身に感じていた人はない。私はいまこれらの言葉を書き抄(うつ)しながら「光は悲劇だ」といったルオーの言葉を思い出す。》

納得するのは引用されているジャコメッティが生涯の最後に吐いたという言葉。

《そんなものはみな大したことでない。
 絵画も、彫刻も、デッサンも、
 文章、はたまた文学も、そんなものはみな
 それぞれ意味があっても
 それ以上のものでない。
 試みること、それが一切だ。
 おお、何たる不思議のわざか。》

「おお、何たる不思議のわざか」は余計のように思うが、とにかく「そんなものはみな大したことでない」。

本の造りはノドの開きもいいし、活字や組版、表紙の布の手触りもいい。ただひとつ、函が窮屈で本体を引き出すのに一苦労する。グラシン紙が破れてしまう。函入りの本にはたまさかにあることながら、これはとくにキツい。どうしたことか。惜しい。
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by sumus_co | 2013-10-08 21:28 | 古書日録