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パンの耳

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天野忠『重たい手』(第一藝文社、一九五四年)。『関西の出版100』のための図版から(こちらはただいま創元社にて最終校正中)。

KYOさんより荒賀憲雄「路地の奥の小さな宇宙ーー天野忠襍記」(『RAVINE』連載)のコピー製本を頂戴した。天野忠を知る上では欠かせない文献のひとつと言えよう。深謝です。

その冒頭に「クラスト忌」という言葉が出ている。一九九三年十月二十八日に天野は歿した。その忌日をこう呼ぼうと本家勇が提案したそうだ。

クラストは天野の代表作『動物園の珍しい動物』(文童社、一九六六年)の序文に登場する架空の詩人の名前である。それによればクラストとは《crust 固いパンの片れ、あれである、つまりパンの耳という奴。あの誰もが敬遠する……》(序文)であり、荒賀氏はこの表現を梃にして天野が使った「パンの耳」という語をその詩篇群から探し出している。まず『重たい手』に収録されている「配置」(引用は部分)。

 エプロンの下から 金を出した
 あの金は一昨日 私に支払われた
 パンの耳を噛じりながら
 このポストで 私はそれを算えた

また「何たる不覚」(『しずかな人 しずかな部分』第一芸文社、一九六三年)に

 今朝 僕は味噌汁の中にパンの耳を浸した

と出ているそうだ。そしてこの「パンの耳」という語は天野忠の中期の「庶民性」を代表する重要な詩語として扱われ今日にいたっているとし、ただし、

《もとよりその語の語るような生活実態は作者の日常に見られるものではなかったにせよ、作者はこのことばに固執せざるをえなかった。それは、とりわけこの時期を特徴づける「庶民性」という詩的位置を形造るに、最もふさわしい一語だったからであろう。
 ことばの担う運命というのは、そのようなものなのである。》

と書いている。天野忠が庶民的な作風を装った時代は、美術家もそうだが、みんな社会主義の風を受けていたような気がする。戦前のモダニズムの作風といい、天野は時代に敏感に反応する詩人のようである。

ちなみにパンの耳は白いところよりもカロリーが高い(水分が少ないので必然的にそうなる)。ということは腹持ちもいいわけで、しかもとびきり安いとくれば、もうこれは「庶民」というよりも「貧民」の味方ではないだろうか。パン好きに言わせれば、ほんとうにおいしいパンは耳もおいしいと(当り前?)。

荒賀氏の記述にひとつ補足する。天野忠「最後の家族」(『重たい手』)冒頭。

 私が生まれたとき
 小さな地震があった
 母の顔にはいつも星の形をした
 小さな黒い膏薬が貼ってあった

この膏薬を氏は《「死の方へ生長」し続けている我々の運命(星)にほかならない。作者はそれを、生活に疲れた庶民の、頭痛病みの女性などがよくこめかみに張り付けていた膏薬(「黒い」はずはなかろうが)に表象する》と解釈している。解釈に異論をはさむつもりはないが、《「黒い」はずはなかろうが》は思い込みで、黒い膏薬は存在する。

あと、もうひとつ注目したのは『動物園の珍しい動物』がデヴィッド・ガーネットからヒントを得たと書かれていること。

《表紙の狐の絵がいかにも気になったので、この点を先生にたずねたところ、「『狐になった夫人』や」とおっしゃったことがあり、このあたりガーネットの原典に当ったことのない私には見当がつきません。》(「パンの耳」をめぐって)

ガーネット(DAVID GARNETT)の『LADY INTO FOX』は邦訳されて文庫にもなっているし、原文は下記で読むことができる。挿絵付き。
 
http://www.gutenberg.org/files/10337/10337-h/10337-h.htm

『狐になった夫人』というタイトルは井上宗次訳(新潮文庫、一九五五年)である。さすれば天野はそれを読んだのだろうか。他に『狐になつた奥様』(新月社、一九四八年)もあり、没後になるが、『狐になった人妻』(ガーネット傑作集. 1、河出書房新社、二〇〇四年)、『狐になった奥様』(岩波文庫、二〇〇七年)という訳もある。
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by sumus_co | 2010-05-31 19:58 | 古書日録

ガルガンチュワ

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題 名=ガルガンチュワとパンタグリュエル第二之書 パンタグリュエル物語
発 行=昭和22年4月5日
飜訳者=渡邊一夫
発行者=草野貞之
印刷者=牧恒夫/株式会社大化堂印刷
発行所=株式会社白水社
東京都千代田区神田駿河台三ノ一ノ四
装 幀=
タテ=208mm

ジャケットと表紙
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by sumus_co | 2010-05-30 21:55 | 渡邊一夫の本

斎藤茂吉異聞

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『彷書月刊』二〇一〇年六月号。特集・豆本型録。豆本世界の広がりが分かり、またちょっと作ってみたくなる実践手順が掲載されているのが有り難い。

身辺ガタガタ忙しく届いてからそのままになっていたけど、今、読み出すと連載はどれも面白い。この雑誌がもうすぐ終わるというのはほんとに惜しいことだ。

÷

『日本古書通信』2010年5月号もひもとく。こちらもディープな記事が勢揃い。「鈴木光さん古書収集を語る」、「反町茂雄氏の思い出と古書販売」など面白く読む。

なかでも膝を打ったのが青木正美「斎藤茂吉異聞(12)」である。茂吉の留学中の妻輝子の浮気について茂吉が気をもんだ手紙について書かれている。なぜ膝を打ったかというと、今必要あって細馬宏通『絵はがきの時代』(青土社、二〇〇六年)を読んでいる最中で、ちょうどまさに「アルプスからの挨拶」に出て来るルツェルン湖のほとりにそびえるリギ山(この山は盛んに絵葉書に描かれたそうだ)に斎藤茂吉と輝子が大正十三年九月に訪れているという記述にぶちあたったからである。

細馬氏は斎藤茂吉「リギ山上での一夜」を引用しつつ、茂吉の感情の揺らぎ、夫妻の不和を指摘する。どうも様子がヘンなのだ。

《たとえば絵はがきを書き止めてサロンに戻った茂吉と輝子はと言うと「邪魔するものの無い気安さと落付きがあるに相違ないから、ふたりは突慳に相争ふやうなことはなかつた。けれども今此処っを領してゐる静寂はつひに二人に情熱の渦を起させることがない」と、なんとも微妙な調子なのである。》

一方、青木氏が紹介している輝子が大正十一年五月五日に外地の茂吉に送った手紙は東京中で大流行中のダンスはぜったいしませんと約束する内容だ。輝子はこのおよそ二年後、帰国を前にした茂吉とパリで合流してヨーロッパ各地を旅した。

《前田茂三郎によると、輝子が洋行して来てからも茂吉は、夫人を「家内」とも言わず、「カカア」「カカア」と言い、一種憎悪に近い語気で呼んだりしていたと言う。前田が訊くと茂吉は涙を流さんばかりに輝子のスキャンダルを訴えたとか。そして茂吉はすでに輝子はみごもっており、帰国して生まれた長女は「七ヶ月で生れた」と前田に手紙で報じたと言う(山上次郎『斎藤茂吉の生涯』)》

細馬氏が指摘する《奇妙に冷めた記述》の裏にはそういう事情があったようである。

÷

金沢文圃閣の『文献継承』16号も届いていた。これは書物蔵氏の「ホンモノの「日本図書館学会」と「日本図書館研究会」(あったかもしれない大東亜図書館学;1)」掲載号。京都で発足したこれまでほとんど知られていなかった団体だそうだ。リーダーが当時京大図書館におり、後に光念寺の住職になる三田全信という人物だったというのには興味を引かれる。坊主と古本は京都の定番か。

金沢文圃閣の新刊内容見本『性・風俗・軟派文献書誌解題—近代編』(全四巻)も同封されていたが、これは谷沢永一コレクションをベースにしたものらしい。エロ出版史まで目配りがきいているのはさすがと唸るしかない。
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by sumus_co | 2010-05-30 16:46 | おすすめ本棚

ジョージア

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 骨董店のニューウェイヴを紹介する特集を組んだある雑誌で、ペッチャンコになった空缶ばかりを並べて売ったという人の話を読んだ。そんな奴いるんだ、と驚いたわけだが、もしそれが売れたとすれば、どうやら売れたらしいのだが、さらに物好きな客がいたわけで、世も末、ではない、世の中捨てたもんじゃない。

 じつは小生も路上に落ちているペチャンコの空缶を拾って大事にしている人種である。見事に錆びが吹いて、印刷された「GEORGIA」の地色も本来は紺色のはずなのが、すっかり焦茶色に変ってしまっている。裏面(上の画像)はいっそう酸化がすすみ、おそらくこちら側が地面についていたのであろうか、火星の表面もこうではないかと思わせられるほどの荒涼たる有様。もしこれが茶陶なら「景色」とでも嘆賞すべき風趣が感じられる。

 拾ってからもう十年くらいになるだろう。その後も路上観察を欠かさず、空缶の掘り出し物、いやへしゃげ放置ものはないか注意を怠っていないにもかかわらず、これ以上の逸品、いや同じ程度の品にもまだお目にかかっていない。

 おそらくふつうに町を歩いていただけではダメなのだろう。仮に商売になるほど商品を集めるとすれば、よほど根気よく歩くか、または特別なスポット、空缶を風化させ空缶とは別の存在にまで高める(あるいはおとしめる)ほどよい環境を熟知していなければならない。

 それにしてもいったい一個いくらで売ったのだろうか? というかいくらなら買うかなあ……。
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by sumus_co | 2010-05-29 19:51 | 貧乏こっとう

テニエルの手紙

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27日にブルームズベリ・オークションでドジスン(ルイス・キャロル)に宛てたジョン・テニエルの手紙が£42000(約550万円)で落札された。『鏡の国のアリス』の挿絵について話し合う内容で、wasp(アブとのご教示をいただきました)のくだりを削除するよう提案している。手紙の図版は研究書にも収録されて知られていたが、実物は永らく行方不明だったという。

http://www.bloomsburyauctions.com/detail/720/646.0

上の写真はアリス・リデル。キャロルが《「すっかり変ってしまった。良い方向に変ったとはとてもいいがたい」》(矢川澄子訳)と感想をもらしたころのものだろう(?)。
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by sumus_co | 2010-05-29 17:32 | 古書日録

独文階梯/ボツク第一読本

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左はカール・フロレンツと大村仁太郎『独文階梯』(独逸語学雑誌社、一九一一年十六版)。フロレンツは一八八八年に来日して東京帝大でドイツ語と言語学を教授した。一九一四年に帰国、ハンブルグ大学に日本学科を創設し『古事記』『日本書紀』をドイツ語に飜訳したそうだ。独逸語学雑誌社は明治三十年代から明治末ごろまでの出版物が確認できる。その名のごとくドイツ語関係の本ばかり。

これは以前から持っていたが、本日、わが家からいちばん近い某古本店で右の『ボツク第一読本』(六合館、一八九八年)を求めた。100円。ボツクは Eduard Bock のようだが、独文タイトルは『Ferdinand Kirts Deutsches Lesebuch』。六合館(りくごうかん)は明治十年代から大正末頃まで活動したようで、語学に限らず実用書などを手広く出版していたようだ。この本は元本をそのまま複写したらしい。リトグラフのような印刷に見える。粗いコピーに似ている。この時期の国定教科書なども同種の印刷である。挿絵がたくさん入っていて、なかなか精巧な図である。

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下は『独文階梯』の凡例。この組版は面白い。左開きで縦書き、しかも左から右へ読み進むのだが、項目ごとには右から左へ読むという混乱というか苦心がうかがえる。
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by sumus_co | 2010-05-28 21:03 | 古書日録

1946文学的考察

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題 名=1946文学的考察
発 行=昭和22年5月31日
著 者=加藤周一 中村真一郎 福永武彦
発行者=中野達彦
印刷者=小島順三郎/株式会社秀英社
発行所=真善美社
東京都港区赤坂溜池町30番地
装 幀・カット=故六隅許六
タテ=209mm

すでに紹介しているが、これは気に入っているので、扉も見ていただこう。

大西巨人『地獄篇三部作』(光文社、二〇〇七年)にこういうくだりがある。

《『分析文化』は、例のごとく、「ミニュイ・ポエティク」の連中(泣村死一郎、砂糖渋一、服長丈低)が、フランス語とフランス人作家批評家の名前とドイツ語とドイツ人作家批評家の名前とイギリス・アメリカ語とイギリス・アメリカ人作家批評家の名前とを、知った限り無闇やたらに並べ立てているのには、閉口した。しかし、落語式に言えば、彼らは、たしかに僕なんかよりも「学がある」ようだ。》

『綜合文化』、「マチネ・ポエティク」、中村真一郎、加藤周一、福永武彦、というふうに読み替えればいいのだろう。ふつうに書けば《ヨーロッパの文学への造詣の深さを印象づけた》(ウィキ「中村真一郎」)ということ。
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by sumus_co | 2010-05-28 16:57 | 渡邊一夫の本

アンドレ・ブルトン

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ポンピドゥーセンターの売店で求めた絵葉書。十枚買うと一枚オマケしてくれる。手前はよく知られたアンリ・カルチェ-ブレッソンが一九六一年に撮った晩年のポートレート。奥は一九二九年頃に撮られた一枚。『ナジャ』から『シュルレアリスム第二宣言』の頃。

『トポール伝』の著者フランツ・ヴァィヤン(Frantz Vaillant)はローラン・トポールがブルトンと出会ったときの様子を次のように描いている。まずはトポールの友人ジョドロウスキがブルトンの仲間になった。

《ジョドロウスキは一区のルーブル通りにあるラ・プロムナード・ド・ヴェニュ(美神の散歩道)にもよく通っていた。そこは、もしアンドレ・ブルトンのお気に入りのカフェでなければ、とりたてていうほどの場所ではなかった。

シュルレアリスムの父はそこで弟子たちや、大げさに敬意を表する取り巻き連中を謁見するのを好んだ。

雰囲気が愉快なことはめったにない。いかなる批評をも意に介さない老主人はシュルレアリスム運動の偉大な時代と同じように誰が彼にとって良い人間かを判定し続けていた。とりわけ独裁的に、すべての新入会者を認め、あるいは拒んだ。気に入らない者は話し合いの余地なく除名した。ブルトンは少々時代遅れな雰囲気のなかで有名な審判を執り行った。まさに統治の末期。お気に入りたちの宮廷を見るようなものである、多かれ少なかれ、奴隷、おべっか使い、文字通り大物に近づけて有頂天になっている者ども。

ジョドロウスキはどうやってブルトンと接触したのだろう? 彼は言う「俺はシュルレアリストのジャン・ブノワ(Jean Benoît)、例のサドを顕彰した大宴会をやっつけた奴と親友だったのさ。奴は胸にサドの烙印を押していたよ。俺は奴にブルトンのケツにそれを押し付けてやれよとすすめて、歴史に残るぜと保証してやったが、奴さんはブルトンを尊敬しすぎていたよ……」

ローランとアラバルがそのカフェの門を入ろうと計画していたのかどうか分からないが、ジョドロウスキのおかげで彼らはブルトンに会うことができた。

期待に反して、会見はばかげた成り行きとなった。ローランは、すぐに、その有名人の異議を許さない、もったいぶった様子に耐えられなくなった。そして決して忘れられない場面を目撃した。

その日、かたわらにアメリカ出身の女性が座るや、ブルトンはいきなり爆発した。「そなたはCIAの女スパイに相違ない! 出て行かれい!」、シュルレアリストたちも声をそろえた「そうだ、出て行ってください!(Oui, sortez!)」。だが女客は従うことを拒んだ。彼女は警官を呼ぶと脅した。グループに参加していたただ一人の女性ジョイス・マンスールはただちにペリエの壜をひっつかんでその女に水をふりかけた。大失敗! ジョイスは狙いを外した……ミネラル・ウォーターをかぶったのはブルトンだった。

ローランはといえば、余計者だった。「ぼくは急いでクリネックスを買いに走った。窒息しそうだ! 分かるだろ。ブルトンが予言しているときにはクシャミさえできないよ、ばかげたことはひどく罰せられた。そこでは誰にも友人を選ぶ権利はない。ブルトンが善悪の唯一の判定者、正真正銘リセの校長先生だ!」》

(以上適当な拙訳なので間違っていたらごめんなさい)とまあ、おおよそこんな様子だった。トポールは二十数年後ラジオでこう言ったそうだ。「もしブルトンが一国の指導者となっていたら、そこにはきっとロシアと同じくらい巨大なグーラグ(労働キャンプ)ができただろう」
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by sumus_co | 2010-05-27 22:31 | 喫茶店の時代

美の風 vol.6

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『美の風』第六号(「美の風」編集室、二〇一〇年六月一日)。姫路の森画廊が発行している美術雑誌。特集・画家の肖像には、池内紀「黒白の天地ー版画家谷中安規」、戸田勝久「松南先生彷徨」、森崎秋雄「三谷十糸子ーモダーン美への夢」、そして小生の「モランディへの旅」が並ぶ。連載では甲斐史子「和辻哲郎と岸田劉生」に興味をひかれた。


モランディへの旅  林哲夫
 
 大好きだが、どうしても真似のできない絵がある。単純な形だし、奇を衒ったようなタッチでもない。見たままに再現するのはある意味とても簡単のようだ。けれども実は、絵づらをなぞっただけではどうしても届かないところに、本当に真似たいものが潜んでいる。エッセンスをとらえる……とそんな大それたことではなくて、おこぼれにあずかる、そのくらいの下心でもなかなか近寄り難い存在。ジョルジョ・モランディ、恐るべき画家である。

 モランディを初めて知ったのは武蔵野美術大学の学生だった一九七四年から七五年あたりのこと。教室での作画に疲れた、というか飽き飽きしては毎日のように図書館へ待避。のんびり画 集などを眺めていた。のんびりと言っても、性格的にボーッとしているのは苦手なので、とにかく棚に並んでいる画集はすべて開いてめくってやろうというような、ほとんど無益な情熱をもって手当り次第に引き出していたように思う。

 そんな中にそれまでまったく知らなかった絵があった。いや、地方出身の青二才にとってはほとんどが見知らぬ画集ばかりだったのだが、個人的に「なんじゃこりゃ!」と息をのむような絵を数え上げるとすれば、おそらく片手の指でこと足りる、などとうそぶくような自信過剰な学生だった。まあ自分の好みだけははっきりしていたとも言える。その数えるほどの「発見」のひとつが「モランディ」だったというわけである。壜や壷をいくつか並べて、同じような構図 で何枚も何枚も飽きずに描いている。モチーフとなったオブジェの形が溶けて行くというのか、はっきりしているのだが、あいまいなまま提示された、まるで存在の在り方そのもののように表現されているのだ。風景ときてはさらにつかみ所がなく、それでいながら紛れもなく実在の場所を感じさせる。

 その画集はハードカバーの二巻本だった……と永らく信じていた。だとすれば

 Morandi catalogo generale, Lamberto Vitali, Electa Editrice 

でなければならない。ところがこれは一九七七年初版である。ここでどうしても記憶があいまいになってしまう。モランディの実作を初めて見たのがミラノの現代美術館、一九七六年三月だった、これは間違いない。春休みのツアーで初めてヨーロッパを旅し、各地の美術館を経巡った。ミラノの現代美術館はみょうにくっきりと脳裏に焼き付いている。玄関へと続く白っぽいアプローチを辿って館に入り、最初の方の家具調度などが設えられた部屋にモランディの静物が何点かまとめて展示されていた、そういうふうに覚えている。感激してしばらく動けなかった。そしてそれはたまたま出会ったのではなく、そこへ行けば見られると分かっていたはずなのだ。ということは、どう考えても、 最初に開いたのはヴィターリのカタログレゾネではなかったという結論になる。

 では、どの本だったのだろう? 武蔵美の資料図書館のホームページにアクセスして蔵書を検索してみた。すると一九七五年以前に刊行されたモランディについての書物は以下のものを収蔵しているという答えが出た。

 Giorgio Morandi, Lamberto Vitali, Olivetti, 1961
 Giorgio Morandi, le incisioni, A. Ronzon, c1969
 I Maestri del colore v.38 Morandi, Fratelli Fabbri, 1964-69
 Giorgio Morandi pittore, Lamberto Vitali, Edizioni del Milione, 1965

 三冊目のファブリではないことはほぼ確か。実物を手にとれば、はっきりするだろうが、ヴィターリの二冊のように思えてきた。だからどうしたと言われても困るのだが。

 一九八九年から翌年にかけて、神奈川、三重、ふくやま、有楽町、そして京都の各地でかなり大きな規模のモランディ展が開催された。これにより日本の美術ファンの間にモランディの作品が知れ渡る。筆者は京都の国立近代美術館で見たのだが、個人的には今でも最も印象に残る展覧会のひとつである。

 では、それ以前、日本でモランディは展示されていなかったのだろうか? もちろん展示されていた。例えば一九八〇年十月から十一月にかけて弥生画廊がモランディ展を開き、図録を作製して いる。油彩七点(戦後作四点、戦前作三点)、エッチング四点、計十一点出品。図録の巻頭に今泉篤男が「ジョルジオ・モランディ(Giorgio Morandi)について」という文を寄せ、次のように書いている。

《その作品もこれまで余りわれわれの眼にする機会は少なかった。私の記憶する限りでは、1972年、オリヴェッティ社の企画した巡回展「近代イタリア美術の巨匠たち」の中に十数点含まれて、東京都と京都の国立近代美術館で展観された時ぐらいである。》

 そして弥生画廊の展示を《日本にあって初めてのモランディ展覧会である》と断定している。文中に出ている「近代イタリア美術の巨匠たち」展の図録を参照してみると、正確には、モランディは十八点出品されていたようだ。それも初期から晩年まで、デッサン、水彩、油彩とモランディの全体像をコンパクトに示す内容だったことが分かる。質量ともに弥生画廊の展示を しのぐものだが、戦前の作品ばかりでエッチングは含まれていない。モランディは永年、ボローニャの美術学校でエッチングを教えていた。油彩画とはまた別種の独特な作風を築いており、ヨーロッパでの評価はかなり高いようだ。有元利夫のエッチングなどもおそらくモランディの影響を受けている。少なくともモランディ展の直前に同画廊で個展をしているから、間近に見ていたのは間違いないだろう。

 展覧会ではなく図版での紹介ということならば、もっと早く『みづゑ』一九五三年八月号(現代イタリア絵画特集)に登場していた。原色図版一点、モノクロ図版五点掲載。スクオラ・メタフィジカ(形而上絵画派)を中心にした観点から、五点は一九二〇年以前の初期作品、デ・キリコやカッラに 近づいていた頃である。モランディがそもそも世界的な作家になったきっかけは一九四八年のヴェネチア・ビエンナーレで大賞を受賞したことだった。しかも賞の対象となった三点の作品はメタフィジカ時代のもの。『みづゑ』の図版が初期作品ばかりなのも納得できる。ところが実はモランディ自身はそれらの仕事をずっと否定してきた。若気のいたりとでも思ったのか、あるいはもっと複雑な含みがあったのかもしれないが、いずれにせよ不本意な作品群としてひた隠しにしていた。ただし大賞と賞金という世俗的な評価については本人もいたく満足したようである。五十八歳。遅咲きの大輪だった。

 モランディと学生時代に出会って、一九九〇年の回顧展で決定的に打ちのめされた。そし てさらに一九九四年にももう一発ボディブローをくらった。それは日本橋のツァイト・フォト・サロンで開かれた「ルイージ・ギッリ作品展 モランディのアトリエを中心として」である。文字通りモランディのアトリエやそこに放置されたオブジェを撮影した写真展だった。運良く開催時期が銀座での拙作個展と重なって見ることができたのだが、これにはすっかり参ってしまった。会場で販売していた写真集を買った。フランスとイタリアの出版社が共同で刊行した一冊。

 Atelier MORANDI, LUIGI GHIRRI, Contrejour + Palomar Editore, 1992

 これらのうちの幾つかは二〇〇〇年に刊行された『須賀敦子全集』(河出書房新社)の装幀に使われることになる。

 ギッリの写真は絵を作るときのオブジェに対するモランディの心持ちや手付きをさまざまに想像させるものだった。一見、絵とモデルは直接には何の関係もないようにも思えるが、もしそれらのオブジェがなければ、その絵も決して生まれなかったはずなのだ……などと埒もないことを考えつつ繰り返しこの一冊を眺めるうち、当然のごとく、モランディのアトリエを訪ねたいという欲求がムラムラと湧いてきた。

 モランディはイタリアのボローニャで生まれ、母と三人の妹たちとともに、生涯のほとんどをフォンダッツア通りのアパートで暮らした。その一室が寝 室とアトリエを兼ねていた。ようやく最晩年にいたって、死の四年前の一九六〇年、ボローニャ郊外グリッツァーナに別荘を建て、そこに初めて独立したアトリエを持った。最初は渋っていたモランディも、妹たちに押し切られて賛成したのだが、別荘が完成したときには喜びを隠さなかったという(ギッリはそこも撮影している)。

 フォンダッツア通りのアパートにはさまざまな人々が訪れたようだ。隠者のような孤高の画家のイメージで語られることの多いモランディ、実はなかなか社交的で実務的な人物だったらしく、とくに戦後、有名になってからは外国人のコレクターをしばしば迎え入れた。ここではそうなる前の訪問記を引用してみる。

《一九四六年の暑い夏の朝、廃墟ばかりで交通も ままならない中、ボローニャまで彼に会いに出かけた。私はジュゼッペ・マルキオーリのために絵画を収集していた。駅を下り赤っぽい埃の舞うなかで瓦礫をよじ登り、戸をたてた不揃いなアーケードを抜けて、ようやくサント・ステファノ広場、そしてフォンダッツア通りへとたどり着いた。

 当時、モランディの絵を求める訪問者はそれほど多くはなかった。階下の扉を押し開けて中に入ると階段の匂いにつつまれ、次に小さなダイニングの匂い、こざっぱりとした部屋の雰囲気が感じられた。磨かれた家具、ガラスのキャビネットには陶磁器、大きなキャビネットはレンブラントの銅版画「横たわる黒人女」の上に影を落としている。すべてが小綺麗である。礼儀正しく微笑みを絶やさないモランディ は少し待つように言った。彼は私を通してもいいかどうか確認したのだ。

 輝く真鍮のベッド、アイロンのかかったキルティングの上掛け。若者がちらっと見えたが、それは衣裳箪笥の上に置かれたマンズーの小さな頭像だった。ドアを抜け、寝室の奥へ。そこが彼のアトリエである。三メートル半と四メートル半。隅にソファ。窓からはフォンダッツア通りの公園を見下ろすことができる。

 小さなベッド、土色のカバー、絵具がこびりついたイーゼル、床には白墨のマーク、彼の靴の跡か?

 それまで誰もアトリエの写真を撮ったことがなかった。壜、カップ、埃を被ったランプ、箱の山、食器棚、盛り皿。それらはみんな本物なのだろうか? 床に散乱した、あるいは、順序良くまたは陰影で立 体的になるように台の上に並べられた品々は。むき出しで壁に掛けられていたモランディの絵は多くなかった。五、六点。》

 これは『MORANDI DRAWINGS』(FRANCA MAY EDIZIONI, 1978)の英語版に収められているネリ・ポッツアの解説から適当に意訳したものである。ギッリの写真集と比較しながら読んでみると、写真には写っていないものもあって、激動の時代をくぐりつつ着実に仕事をしていた画家の息づかいが感じられるような気さえする。善くも悪くも、ギッリの写真はやはりモランディ歿後の、主不在のアトリエである。

 ボローニャへの旅に焦がれながら何もできない時間が過ぎて行った。ようやくに思い切って決行したのは一九九八年四月である。まずパリで何日か過し、時ならぬ雪さえ降った悪天から逃れるようにイタリアへ飛び立った。ボローニャ空港に降りると、まるで別世界、アーモンドの花が咲きほこる南国の趣だった。

 モランディのアト リエが公開されているわけではなかったが、一九九三年、妹たちから市に寄贈された作品を基にして、マッジョーレ広場に面した市庁舎の中にモランディ美術館が開館していた。ここにモランディの寝室兼アトリエが再現されている。通路からガラス越しに眺めるだけなのだけれど、フォンダッツア通りのアパートから家具やオブジェがそっくり移され、かつての空間を偲べるように構成されているのだ。ギッリの写真集で親しんだ光景が、少々の嘘くささを発しながらも、眼前に展開しているのには、やはりはるばるやってきた甲斐があったと感激させられた。

 もちろんフォンダッツア通りも歩いた。城壁で囲まれたボローニャ市街はそう広くもない。市庁舎から歩いて十分余りだったろう。静かな住宅 街の一角だ。モランディの住んでいたアパートやその界隈の写真を撮ったり、スケッチもしたりしながら、何か腑に落ちない気持ちがしてならなかった。赤褐色あるいは黄土色の壁が風化したような、いかにも絵になりそうな街並である。だが、これはモランディの風景画から連想する世界ではなかった。中世風のそしてバロック風の面影を色濃く遺すこの街から、あのように新鮮な、ある意味フランス風な、灰色の調子のあいまいで湿っぽい空気をもつ絵を紡ぎ出せることが不思議でならない。パリから着いただけになおさらそう思えた。静物画の場合と同じように、モランディは目で見たモノを描いているのではないに違いないが、しかし何も見ていないわけではない。その眼と心の動き方に独特の関係がある。

 イラストレーターのジャン=ミッシェル・フォロンは『FLOWERS BY GIORGIO MORANDI』(RIZZOLI, 1985)というモランディの花の絵ばかりを集めた画集を編集している。そこに収められたフォロンのエッセイは心に沁みるいい文章である。一九七〇年代の初め頃、フォロンは、モランディの五十年来の親友ジーノ・ギリンゲッリの娘パオラに案内されてボローニャ駅に着いた。駅は城壁の外側にある。雪が降り始めていた。二人はタクシーを拾って「ピアツェッタ・モランディへ」と告げたが、運転手はその場所を知らなかった。パオラが色々説明してやっとたどり着いた。

《ピアツェッタに到着して車が停まった。運転手は、われわれが寂れた小さな広場の名前板を読み上げるのをあきれて見ていた。寒さが増してきた。パオラはもっと大きな通りに彼の名前を付けてもよかったんじゃないかと思った。こ れについて一番下の妹マリア=テレサは後にこう語ってくれた。

「兄が死んだとき市当局が目抜き通りに兄の名前をつけたいと言ってきたのよ。でもそれは兄のシンプルなやり方に似合わないわ。しばらく話し合いが続いて、長姉のディーナが、もし当局の意向を受けるなら、フォンダッツア通りのアトリエのすぐそばの小さな広場がいいと言い出したの。それで私たちも賛成したわ。そこは毎朝兄が犬を散歩させていたところですものね」》

 この文章も予め読んでいたので、しっかりとピアツェッタ・モランディも確認し、踏みしめてきた。広場というほどでもない、交差点の角に車が二台くらい停まれるていどの空き地があるだけだった。アパートからは一分とかからない。それでもモランディ の愛犬がここでオシッコしていたんだなあ、などとつまらない感慨にふけったのである(ファンは何でも有り難がる)。

 フォロンはパオラからモランディの最期について聞かされた。ヘビースモーカーだったモランディの死因は肺癌だった。

《「モランディはもう絵を描く体力がないと感じたのね、病気が重いことは分かっていたわ。父は彼からの電話でよくボローニャから電車に乗ってグリッツァーナへ会いに行ってたんだけど、だんだん病が重くなる彼を見るのが辛くて行けなくなったのよ。

 ディーナに呼ばれて最後に出かけたとき、モランディは父にイーゼルに乗っている絵を見せたの。静物だったわ。「これでおしまいだ」そして「これは君のために」と彼は言ったのよ。

 それから何ヶ月かしてモランディは亡くなり、埋葬の日に父ジーノ・ギリンゲッリはグリッツァーナへ出かけたわ、小脇に小さな包みを抱えてね。葬儀が終わると、父は妹さんたちの前へ進み出て、その絶筆の絵を差し出したの。「彼は私の親友でした。でもあなたがたのお兄さんです」とだけ言って、その場からいなくなった。二月ほどして後を追うように父も亡くなったの」》

 あのときどうしてグリッツァーナまで足を伸ばさなかったのだろう。一日つぶせば訪ねられたはずだ。終焉の地ということが全く頭に浮かばなかった。最近読んだ書物によれば、モランディが生きていた頃の片田舎の様子とはまったく変ってしまって、葡萄畑が一面に広がっているそうだ。仮にそうであっても、裏切られる のがモランディ巡礼の宿命、いつの日か是非訪れる機会をもちたいものである。
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by sumus_co | 2010-05-27 17:02 | 著述関連

ちくま6月号

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ふたり読む人。これも阪急京都線車中にて。立っている乗客がそこそこいるくらいがスケッチしやすい。エッセイはケルテス『オン・リーディング』の「オン」について。
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by sumus_co | 2010-05-27 13:37 | 装幀=林哲夫