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東遊記

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プランター栽培で穫れたわが家のイタリアン・トマト。くわしくはこちら「我家のトマトの軌跡」を参照あれ。

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先日の橘南渓『諸国奇談東遊記一』(版元不明、寛政七年序)。表紙ボロボロながら挿絵がきれいに残っている頁もある。作者は山口素絢(やまぐち・そけん)。京都生。姓は橘、字は伯陵、のち伯後、通称を武次郎、号は山斎。円山応挙の門で、十哲の一人。優美な和美人を得意とした。また花鳥画も能くする。文政元年(1818)歿、六十才。

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「熊突」という題で《加賀越中は世に名高き熊多き所……》とはじまる一章に付された挿絵。著者が猟師に尋ねた熊の捕獲方法を説明してある。冬眠している熊の穴に薪をどんどん投げ入れると、熊が怒って出てくるから、出てきたところを槍で突く。《月輪のあたりをねらいて突く也熊突かれなから其槍をかなぐり捨んとして引程にいよいよ槍深く身を貫く》。しかし槍を突き損じたならば《熊の掌にて槍の穂先を握るに丈夫なる槍の身二ツ四ツに折れ砕くさあれハ猟者もつかみ殺さるゝとなり》、突き損ねると猟師がやられる。

著者が「どうして鉄砲を使わないのか?」と質問すると、鉄砲は当っても熊は突進してくるので、槍の方がいいのだ、手負いの熊がいちばん始末がわるい、という答え。著者の結論は、猟師も漁師も勇気がある、そして《盗賊ハ又利欲に勇あり皆其習ふ所に勇ありと思ハる》だとさ、ヘンなの。

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七つ擲る」で戦前の近藤書店の書皮ことを書いたが、そのとき《銀座五丁目、今はなき》とした。しかし車谷弘『銀座の柳』(中公文庫、一九八九年)を読んでいると、こういうくだりにぶつかった。

《中学時代の私は、夏休みや冬休みに、動坂の父の家へ行って、東京の本屋をまわり歩くのがたのしみだった。神田の三省堂とか、東京堂へはいって、ぎっしりつまった厖大な書棚を仰ぐと、田舎中学生は、宝の山へはいったようで、圧倒されて、めくるめく思いをした。しかし私のいちばん好きな本屋は、日本橋の博文館の小売部だった》

《しかし私が、いちばん本を買ったのは、銀座の近藤書店で、その頃この書店は、いまの三越のならび、木村屋の前あたりにあったようにおぼえている。小さい店だが、舗道まで売り台をはり出していて、そこに島田清次郎の『地上』などが、堆くつまれていた。江馬修の『不滅の像』とか、有島武郎の『生れ出づる悩み』とか、その多くは新潮社の本で、白い表紙に、書名は赤、著者名は黒の、いずれも活字で、書名のところだけくりぬいたパラフィン紙がかけてあった。ひと目みて、それは新潮社本とわかるものが多かったようだ》

『生れ出づる悩み』(『生れ出る悩み』叢文閣)は大正七年、『地上』一部二部と『不滅の像』一〜三はともに新潮社・大正八〜九年の刊行。その頃には近藤書店は三越の隣にあったらしい。すると銀座四丁目ということになる。念のため書皮を確認すると、住所は「尾張町」である。現在の丁目で言えば一丁目から四丁目までが当時は銀座、五丁目と六丁目が尾張町。ということは、書皮に掲載された封切り映画から考えて昭和十二三年頃にはすでに当時の銀座から尾張町へ移転していたことになる。とりあえず《銀座五丁目》で間違いではなかったようだ。

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高橋輝次氏の「古書往来」が更新された。「古本屋主人の書いた小説を読む ─ 寺本知氏の詩と文学」。豊中で古本屋・文苑堂を経営していた寺本知について。

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湯川書房についての記事が連載されているブログ「本はねころんで」を某氏よりお教えいただいた。貴重な記録である。
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by sumus_co | 2008-07-31 19:38 | 古書日録

All mankind is one volume

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坪内祐三『東京』(太田出版、二〇〇八年、装丁=木庭貴信)。駅ビルのブックファーストにて。ちょうど原稿料代わりにもらった図書カードを持っていた。なかなか凝った装幀だ。木庭貴信で検索すると、文字の使い方に工夫が感じられる仕事がいくつもヒットする。紙の選択もいい。『クイック・ジャパン』連載時に組んでいた北島敬三の写真も多数掲載されており、それらに力があるというか、同じような東京写真は山ほどあるが、ちょっと抜けている。本文はこれから読む。

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風邪で寝込んでいるときにけっこうDVDを見た。なかでは「真珠の耳飾りの少女」(ピーター・ウェーバー、2003)と「チャリング・クロス街84番地」( デビッド・ジョーンズ、1986)が良かった。前者は十七世紀デルフトの光の感じや風俗がそれらしく演出されている。ただしフェルメールがあんな陰気な男とは思えないし、「真珠の耳飾りの少女」のモデルが小間使いとも思えない。コレクターと画家と画家の義母の関係も作り物めいている。まあ小説です。絵画に関する道具立ても当時の様子を忠実に再現しているようにも見えるものの、どこか、しっくりとこない。スカーレット・ヨハンソンの分厚い唇がいちばん印象的だった。

「チャリング・クロス街84番地」はかなり昔に原作を読んでいたが、細部は忘却の彼方だったので、それなりに面白く見た。一九四六年のこと。ニューヨークの駆け出し女性脚本家へレーン・ハンフが、イギリス文学のオリジナルを買おうとするのだが、ニューヨークの本屋では「そんなものはないよ」とすげなく断られる、あるいはバカ高い値段が付いている。そこでロンドンの古書店へ手紙を書いて、欲しい本のリストを同封する。社員が五人いてデューラーの版画なども扱っているから、それなりの店である。そこから脚本家へレーン(「卒業」のアン・バンクロフト)とロンドンの古書店社員(番頭格)フランク・ドエル(レクター博士! アンソニー・ホプキンス)の手紙のやり取りが始まり、戦後の物資不足だったロンドンへヘレーンが食料を送ったりする濃やかな交遊が続く……。

まあ、本の扱いなど、細かい点で気になるところはあったが、一九四〇年代後半から一九七〇年あたりまでの時代を二元的(NY/ロンドン)に描いた物語としてはけっこう楽しめた。ただ名優二人が若干年を取り過ぎているような気もしないではない。もっと無名の俳優でやってもよかった。

チャリング・クロス街は古書街として有名らしいが、小生はロンドンではまったく古書店をのぞいたことがない。Nさんのオックスフォード便りに期待しよう。ちなみにこんな街らしい。
Charing cross road

そうそう、映画の中でヘレーンがジョン・ダンの作品集を入手して読み上げるくだりがあった。

"All mankind is one volume. When one man dies,one chapter is torn out of the book and translated into a better language. And every chapter must be so translated. God employs several translators. Some pieces are translated by age, some by sickness, some by war, some by justice. But God's hand shall bind up all our scattered leaves again for that library where every book shall lie open to another."
http://elvis.rowan.edu/~kilroy/JEK/03/31.html

人類は書物であり、神は作家である、そういうことだろう。で、ピンときたのが芥川龍之介の『侏儒の言葉』。

《人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎(と)に角(かく)一部を成している》「人生―石黒定一君に」

石黒定一は芥川の友人のようで、『ダグラス派経済学全集 第二/生産の統制と分配 』(ダグラス著、春陽堂、一九三一年)の訳書がある。芥川の警句にはたいてい何かしら出典のようなものが見え隠れするが、このフレーズはジョン・ダンから頂戴したとまでは言えないかな。あるいは、神は落丁の多い書物の作者であると暗に言いたいのだろうか。
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by sumus_co | 2008-07-30 21:31 | 古書日録

西国三十三所

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奈良国立博物館で8月1日〜9月28日まで開催の特別展。西国三十三所(さいこくさんじゅうさんしょ)巡礼は《一説に奈良の長谷寺(はせでら)を開いた徳道上人(とくどうしょうにん)によってはじめられ、その後、花山法皇(かざんほうおう)の中興を経て広がっていったものと伝えられています。そもそも霊場が三十三所に定められたのは、『法華経(ほけきょう)』普門品(観音経)(ふもんぼん/かんのんぎょう)に説かれる、観音菩薩が三十三の姿をあらわして衆生(しゅじょう)を救済するという三十三身(さんじゅうさんじん)の教えに基づくと考えられます》とのこと。

ちょうど、寝込んでいるときに近松門左衛門『曾根崎心中』(岩波文庫、一九八六年十一刷)を久々に読み直して気づいたのだが、冒頭が三十三観音巡礼の案内から始まっている。現在、言うところの西国三十三所はこちら
http://www.saikoku33.gr.jp/about/
だがしかし『曾根崎心中』の西国三十三所は大阪三十三観音霊場とも呼ばれ、大阪市北区の大融寺から始まって中央区淡路町の御霊神社(新御霊)で終わるという、まあ大阪市内版である。今ではもう途絶えてしまって存在しない霊場も多いようだ(復興する動きもある)。

京にはちゃんと洛陽三十三所観音巡礼という京都ヴァージョンがあるし、全国にこれまで六百ほどの三十三所が作られたというから、かなり根強い人気があったことがわかる。京都の一番札所は六角堂である。すぐそばに京都の古書籍商業協同組合の事務所がある。京都らしい古い町家ふうの建物。

で、遊女おはつは三十三所巡りを客と終えた後、生玉の茶屋でなじみの徳兵衛と再会、そのあと徳兵衛が親友にだまされて破産し、おはつと二人して曾根崎の《天神の森》で心中してしまう。締めくくりの一節がこれ。

《誰が告ぐるとは曾根崎の森の下風音に聞え。取伝へ貴賎群集の回向の種未来成仏疑ひなき恋の。手本となりにけり》

曾根崎の森は三十三所第一番の大融寺のそばである。う〜む、三十三所を廻り終わって邂逅し、一番の近くで心中するとは逆廻りの意か? 三十三所を参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できると信じられていたというから、《未来成仏疑ひなき》はそれを指すか、ちょっと複雑な近松らしいレトリック。

「曽根崎心中」の初版本の完本が、富山県の黒部市立図書館で初めて見つかったというニュースを新聞で見たのもその頃。ただしこれは神津武男氏の著作『浄瑠璃本研究』(八木書店、近刊)と関連があるようで、神津氏は国内の公共機関を尋ね歩き、浄瑠璃本が二万点所蔵されていることを確認したという(『日本古書通信』947号)。そのうち半分が東京にあり、3155点が早稲田大学演劇博物館にあるそうだ。近代の文芸雑誌などもそうだが、どうも関西は資料保存には熱心じゃないようだ。

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めったに注文しないのだけれど、そしてボーナスをもらったこともないのだけれど、このように数々の古書目録が届いている。ああああ。届くと、つい見てしまう。見てしまうと、つい注文してしまう。デフレ・スパイラルだ(違います!)。

『第17回東急東横渋谷大古本市』の目録にこのブログでも紹介した「北園克衛デザイン小店シオリ 昭和30年代頃 二一〇〇」が出ていた。「小店」は出品店の中村書店。『城北古書会展』では吉岡実『ムーンドロップ』が一五七五円。状態不明ながら安いでしょう。『納涼古本まつり目録』もけっこうリキが入っているようだし、『さんちか古書大即売会』でも気になるものがあった。しかし何と言っても本日、某書店目録にドエリャー掘出し本が載っていて、滅多にない(たぶん年に一回ぐらいの)ことだが、ファックスで注文してしまった。ああああ。
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by sumus_co | 2008-07-29 22:39 | 古書日録

昭和三十年代の匂い

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岡崎氏の新刊『昭和三十年代の匂い』。学研新書である。 mixi で原稿の一部を読んでいたため、仕上がりがどうなっているのか楽しみだったが、期待を裏切らない出来になっている。上の写真は帯に使われている岡崎友人宅のテレビ記念撮影の図(訂正しました)。火鉢(写真手前に火箸が見えている)、ミシン、ミシンの上にあるのは電熱器(?)など細部が豊かな、なんとも味わいのある写真ではないか(前に坐っているのが岡崎氏)。昭和三十四年の早春らしい。日本ではこの年の皇太子成婚を機にテレビが普及した。イギリスでエリザベス女王の戴冠式(1953)が普及のきっかけだったのと似ている。

小生は岡崎氏より二歳年長で、二歳の違いが、同じテーマに対してちょっとした違和感や記憶の差異を呼び起こして、そこがまたとても新鮮だ。同じ時間を生きていても、かなり感じ方は違って、何か別の時代のような気にもなってきたり。まあ、それもそうだろう、こちらは讃岐の農村地帯に生まれたわけだから(ちょっとスネテます)、坪内祐三『東京』にしても、この岡崎武志「大阪」にしても、やっぱ都会児はチゲーな、と感嘆する箇所も多い。

土管のある原っぱというアイコンにしてからが、それらは小生にとってはマンガの中の風景でしかなかったようにも思う。あるいは時間差がかなりある。そもそも土管(コンクリート管)というのは排水管(大口径は井戸の胴に使われたものらしい)だから、排水管があるということはそこに家が建つということだろう。戦後の人口都市集中の象徴だ。狭い家に大人数の家族が押し合いへし合い暮していながら、原っぱ(空き地)がいたるところにあり、土管が置いてある。なんたる矛盾。農民だった地主が肥汲みに回っていた、ところが土地を売って地主は運転手つきの車に乗り、そこに建った住宅はみな水洗式になる。その過渡的風景こそが土管のある原っぱじゃないだろうか。と本書を読んで思いついた。

とまあ、昭和三十年代のアイコンをあれもこれも手際よく整列させて、自分史をからめながら見事にその「匂い」を描き出した、一粒で何度もおいしいキャラメルのような一冊である。
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by sumus_co | 2008-07-28 20:48 | おすすめ本棚

光悦の謡本

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ミック・ジャガーやスタンリー・キューブリックと小生は誕生日が同じである(むろん年齢は違うが)。夏風邪もなんとかしのぎ、平常の85パーセントくらいまで回復したので誕生祝いの食事に四条河原町まで出かけた。高島屋七階、三嶋亭のあみ焼き御膳に生ビール。猛暑日にはこれがイチバン。ビールがうまい、と感じられたので、体調もまずまずだ。

風邪熱が下がれば、古本熱がぶりかえす。食後、高島屋からいちばん近い三密堂書店へ直行。表の百円均一で神近市子編『サヨナラ人間売買』(現代社、一九五六年、装幀=池田竜雄)、橘南渓『諸国奇談東遊記一』(版元不明、寛政七年序)など。復帰第一戦としては悪くない。後者は虫食いがかなりある。巻違いが他に三冊あったものの、いちばん状態のましな巻一を選んだ。東・西遊記であわせて十冊あるようだ(平凡社の東洋文庫にも入っている)。

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店内の二百円均一で高安六郎『光悦の謡本』(檜書店、一九五七年)の裸本を。見返しの光悦本を模倣したキラ刷りに魅かれた。このブログでも昨年の五月二十四日に『阪急美術』44号を紹介したところで触れた「光悦の謡本」など、謡、能、俳諧に関するエッセイを集めた内容である。高安六郎は明治十一年大阪生れ。高安月郊・道成の弟、汲江と号す、医学博士。大阪第一尋常中学校(現北野高校)、東京帝国大学医学部卒業後ドイツに留学、帰国後、副院長として兄の道成を助けた。かたわら、歌舞伎・文楽・能に造詣深く、関西古典芸能評論家としても活躍した。序にこうある。

《かねてから古書に趣味をもつている私は学生のころ謡をはじめて少しした時、東京本郷四丁目の極小さい古本屋で元禄二年版の世間流布三百番外の百番本を見つけたのが病みつきとなり、それ以来懐のゆるすかぎりボツボツ買いはじめ明治末に初めて寛永卯月本百番を手に入れたが、その時分には光悦謡本一冊三円で高いといわれたのを思いきつてもとめて鬼の首でもとつたように喜びましたところ、ほどなくそれが十五円になり二十円三十円と暴騰し我ら貧書生には大恐慌でした》

明治末の三円は現在の一万円ていどだろうと思う。光悦本がたったの一万円(!)。まあ、たしかに一見薄くて安っぽい造りだし、謡の人気もなかったろうし、それはそれで理屈に合った評価だったのかもしれない。もし今、三密堂の均一にあったらスゴイが、決してそんなことはないだろう。ただし、別の意味でそういった類いの閑却された本が均一にまぎれている可能性は信じたいものだ。いずれにせよ、半月ぶりの均一張り付きに、心地よい疲れを感じた。

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マン・レイと余白で」を読んでいると、名古屋で鰻を食したとき、《味が落ちていてがっくり。ほくほく、むっちりの鰻じゃなくなっていた》という感想が載っていた。偽装問題もあってか土用のウナギもいまひとつパッとしなかったらしい。それはそれとして、面白い記事を青木正児『琴棋書画』(春秋社、一九五八年)に見つけたので引用しておく。タイトルもそのまま「支那の鰻料理」。まずはこうある。

《聞くならく東京には鰻屋と称する専門店が繁昌してゐると》

青木先生は山口県生れ、京大時代、その後教師としても京都に住んでいたが、先生によれば、京都には鰻屋はなく、川料理屋で鯉や鮎やアマゴを出した最後に「ウウ」という鰻の蒲焼でご飯を出すだけだったようだ(このエッセイは昭和二十九年の発表)。試しに検索してみると、祇園の「梅の井」が大正創業の鰻屋ということになっているが、ここは江戸焼きだというし、実際のところはどうなのだろうか。

まあそれはいい。問題は中国の鰻。北京では街上で鰻とも蛇ともつかない魚を水に生かして売っているそうで、青木先生は、試食をするために専門の料理店を訪れる。魚は好まれないので普通の料理屋では鰻などは取り扱っていないそうだ。ちなみに大正十三年〜十四年ごろのこと。

《此の魚の筒切を醤油で煮付けたのみで、油がぬら[繰り返し記号]して気持悪く、味ないものであった》《この魚の名の鱔(ゼン)は俗字で、正しくは鱓(ゼン)と書き、黄鱓・青鱓・白鱓などの種類がある。私の試食したのは黄鱓で、青鱓は鰻鱺[ルビ=マンレイ]とも称し、日本のウナギに相当する》

というところでマンレイ・イスト氏はマンレイを食していたことになる。それにしてもこの中国のウナギが今の世の中では日本のウナギに取って代わっているわけだから、青木先生ご存命ならば、なんとおっしゃることやら。
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by sumus_co | 2008-07-27 22:08 | 京のお茶漬け

フールズキャップ

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やはり寝込んでいる最中に届いた『日本古書通信』948号(今号からレイアウトが少し変わった)を読んでいると、白戸満喜子「道化師の帽子[ルビ=フールスキャップ]ー西洋の手漉き紙」という論考が目に留まった。エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』に出てくる「フールズキャップ」(翻訳により表現はさまざま)という単語に着目してポーの時代の紙について述べてある。上のイラストは『黒猫』(岩波文庫、一九二七年)に収録されている「黄金虫」のイラスト(HARRY CLARKE)。

"Never mind," said he at length, "this will answer"; and he drew from his waistcoat pocket a scrap of what I took to be very dirty foolscap, and made upon it a rough drawing with the pen.[http://www.4literature.net/Edgar_Allan_Poe/Gold_Bug/]

「なあに、いいさ」ととうとう彼は言った。「これで間に合うだろう」と、チョッキのポケットから、ひどくよごれた大判洋紙《フールズキャップ》らしいもののきれっぱしを取り出して、その上にペンで略図を描いた。彼がそうしているあいだ、私はまだ寒けがするので、火のそばを離れずにいた。図ができあがると、彼は立ち上がらないで、それを私に手渡しした。[佐々木直次郎訳、青空文庫より]

foolscap とは要するにA4判より少し縦長な紙のサイズ「Foolscap folio」8½ × 13½ inches (216 × 343 mm)のこと。正確には foolscap はその全紙 17 x 13½ inches (432 × 343 mm)のことだが、使用するのはその半切なので(folio に同じ)そう呼び習わされたようだ。

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もともとは fool's cap(道化師の帽子)をかたどった紙の透かし模様(watermark)から来ている。上の図版は十七世紀にレンブラントの版画用紙に用いられたさまざまなフールズキャップ(『レンブラント版画展』レンブラント版画展実行委員会、一九九三年より)。

ウォーターマーク(透かし模様)の同定によって制作年代や作品の真贋を見分けることができるのである。オランダ国立図書館ではネーデルランドで印刷されたインキュナブラ275点に見られるウォーターマーク4,000点のデータベースをインターネット上で公開している

フールズキャップの透かし模様は十五世紀にドイツで用いられているのが最も早い例のようで、イギリスへ入ったのが一五八〇年、議会議事録の用紙として用いられたと言う(ウィキによる)。ウォーターマークそのものはすでに十三世紀には使用されていた。

とまあ、フールズキャップの話をしてきたが、じつは『黄金虫』で主人公のルグラン氏が取り出したのは「フールズキャップのようなもの」で、フールズキャップではなかった。羊皮紙(パーチメント)だったことが後半の種明かしのところで分かる。

君があの羊皮紙の切れっぱしを渡してくれたとき
when you handed me the scrap of parchment

ポーはどうして最初から羊皮紙の切れっぱしとしなかったのだろうか? おそらく海賊の残した古い紙であるということを直接に連想させないようにするためではないかと思う。ということはポーが想定した読者にとってフールズキャップという呼称は羊皮紙と見まがうくらい古い紙をイメージさせるものだったということになろうし、ルグラン氏が《古いユグノーの一家の子孫》だとされていることとも関係があろう。ユグノーは十六〜十七世紀頃のフランスの新教徒である。

とまあ、これは憶測にすぎないものの、白戸女史もその紙の原料が、木材パルプ以前の、麻や木綿のボロであるとし、《ルグランが取り出したフールスキャップは少ない原料で、かつ手漉きにより一枚ずつ作られていた時代の貴重な紙ともいえる》と書いておられる。要するに、ポー・マジックの巧みさを現す単語なのだ。ただ、それを日本語に翻訳するとなると、さらりと無視するのが無難なのかもしれない。

ちなみに『出版事典』(出版ニュース社、一九七一年)にはフールス小判(333 × 424 mm)とフールス倍判(424 × 667 mm)という原紙の規格寸法が載っている。これはまた日本独自のサイズのようである。バカの壁ならぬバカの紙?

安野光雅『安野光雅風景画を描く』(日本放送出版協会、一九九五年)より、フランスのアルシュでコットン紙に特注した透かしとその製紙用ドラム。
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by sumus_co | 2008-07-25 21:42 | 古書日録

ヂェルミニィ・ラセルトゥウ

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北京語言大学漢語速成学院で短期間(五ヶ月)学んでおられたご隠居NHさんからパンダ写真が届いたのでアップしてみる。《北京動物園でオリンピック期間特別公開中の、の若い8頭のパンダ(四川省からつれてきた)のうちの数頭です》とか。ご隠居は短期講習を何度も受講されており、むろん幅広い分野にわたる中国通である。一部、コメントも引用。

《時々息抜き。骨董市、書店通い、伝統演劇鑑賞……。北京の自然保護団体、鳥関係団体主催の探鳥会(市内、郊外、泊りがけの遠出も)にもなんどか参加。いろいろな鳥を見ることができました。今回は、北京の一般市民の家にホームステイ。東京で言えば「高島平」のような団地の暮らしを味わいました。》

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風邪で寝て居る間に読んだ本ではゴンクール兄弟の『ヂェルミニィ・ラセルトゥウ』(大西克和訳、岩波文庫、一九五〇年二刷)が断然面白かった。この岩波文庫、初版ではないが、文庫専門店ではけっこうな値段が付いている。文庫といってもあなどれない。もちろんこれは100円(帯付)だった。

大西克和は『ゴンクウルの日記』三巻(鎌倉文庫、一九四七〜九年)および『ゴンクールの日記』五巻(角川書店、一九五九〜六四年)が大きな仕事で、他にゾラやドーデも訳している。『ヂェルミニィ・ラセルトゥウ』について言えば、意味不明な和訳(意訳?)も散見されるものの、全体の調子がなかなかの名文で、読みやすく仕上がっていると思った。

病中に daily-sumus から独立した「オックスフォード便り」に田山花袋への影響云々の話しが出ていたので読んでみる気になったのだ。ゾラやモーパッサンよりもタッチとしてはゴンクールの方が好みである。ミルクホールとかペンキ屋とか、コーヒー占いとか、小生の興味をもつフランスの庶民生活がたくみに描かれている。例えば、最近の話題にひっかけてこんなところも面白い。パリ郊外のヴァンセンヌの森へピクニックに出かけたくだり。

《日が暮れて、一同は歩いて帰つて来た。堡塁の壁に、ゴオトリュウシュがナイフの切つ先で石の上にハアトの形を大きく描くと、その中に皆は銘々の名前を日付の下に誌した》

日本人だけじゃなくこういうことは誰でもするもの。この「堡塁」はヴァンセンヌ城のものであろうか。ヴァンセンヌの森はパリ市の東郊にあり、元々王家の狩場だったが、一八六〇年、ということは『ヂェルミニィ・ラセルトゥウ』が発表される四年前に、ナポレオン三世によって公園として市民に開放された。だからきっと当時の市民にとっては新奇な遊楽の場所だったに違いない。動物園もあり、映画にもよく登場する。

ヴァンセンヌにはちょっと思い出があって、ここに友人の友人が住んでいたので、パリにしばらく居たころよく訪ねて行った。パリ暮しのかなり長い気のいい夫妻で、ダンナはやはり絵描きだった。彼らの住むアパートの物置場(各戸ごとのロッカーのようなもの)に荷物を数ヶ月預かってもらったり、オリーブの種を齧って取れてしまった奥歯のかぶせを応急処置で接着してもらったりと、けっこうお世話になった。いつエンストするか分からないミニ・クーパーでヴェルサイユまでドライブに連れて行ってもくれた。ほんと、底床が抜けそうな車だったよ。

ところが、われわれがイギリスへ行っている間に、そのアパートのロッカーが破られて、夫君の絵が盗まれたというのだ(それまでもときどきあったらしい)。われわれの荷物も被害にあった。リュックにはスペインやイタリアでのスケッチがけっこう入っていたのだ。ところが、夫君の絵(抽象画だった)を盗んだドロウボウ君は小生のスケッチには洟も引っかけず、フィレンツェで買ったファイアンスのコーヒーカップだけ持ち去っていた。まったく憎たらしい。いまでもときおりあの可愛い絵柄のカップとソーサーを夢に見ることがある。
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by sumus_co | 2008-07-24 20:07 | 古書日録

暑中お見舞い申上げます

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夏風邪を引き込んでブログ更新もままならなかった。どうやら、体調もほぼ平常にもどったので、ぼちぼち再開したいと思う。ご心配いただいた皆様に心より御礼申上げます。

考えてみると、こんなに寝込んだのは五年振りだ。どうしてそうはっきり憶えているかというと、ちょうど前回、熱を出してヒーヒー言っているときに、イラク戦争が始まったからである。二〇〇三年の三月二〇日だった。

そのときも京都での個展を終えた直後で、『sumus』の中公文庫特集の編集をやっていた。それ以来『sumus』は出ていないわけだが、その個展の最終日、三月十七日に、二条通のホテル・フジタのとなりにあるアイリッシュ・パブで、湯川書房の湯川成一さんに誘われ、古本ソムリエと三人で打ち上げを兼ねてごちそうになった。偶然にもアイルランドの祝祭日 St Patrick's Day(セントパトリックスデイ)だったので店はなかなかに賑わっていた。

当時、湯川書房は御幸町通夷川上松本町に事務所があった。前年の二〇〇二年十月にはその事務所の壁面を借りて小生は「書物の肖像2002」展をやらせてもらった。事務所といっても、手作り本棚と自然木の大机があるだけで、和紙を貼った壁面が展示に充分なスペースをもっていたのだ。

その少し前、大阪から京都へ湯川書房が移転してしばらくした後、二〇〇二年九月発行の『sumus』第四号(特集=甲鳥書林周辺)でソムリエ氏と二人でインタビューをお願いした。初めは固辞されていたのだが、ソムリエ氏の巧みな勧誘で実現することとなり、これは湯川ファンの方々にはとても喜ばれた。というのもあまりご自身のことを語るということがなかったからである。上の写真はそのときのものである。

そんなことから、以来、湯川書房の単なる冷やかしの客として親しくさせていただいてきたのだけれど、その湯川さんが今月の十一日に亡くなられた。十三日にご家族だけの葬儀が営まれたという。いずれ偲ぶ会がもたれるとは思うが、あまりに急なことであった。

昨年末に手術をされたと噂では聞いていた。御幸町から移転した河原町三条近くの事務所はいつ通っても閉じられたまま。今年の三月十一日になって、たまたま事務所にいる湯川さんとお話することができた。痩せてはおられながらも、お元気そうだったのだが……。

湯川書房の本はどこか間の抜けたところがある。たいていのプライヴェイト・プレスはこだわりが激しく、ゆとりのない精密さや完成度を求めるものだ。ときにそれは窮屈に感じられる。そういう傾きのあまりない湯川書房の、ある意味、不器用な本作りは、つねに未完成の新鮮さを保っていたように思う。湯川さん自身はそれが気に入らないのか、残したい本は一冊もないと言っておられた。出版目録すらないようだ。氏はとても繊細に気を使う人だったが、どこかいい加減な塩梅でよしとするところもあった。そのアンバランスが湯川本の魅力といっては叱られるか。

二〇〇三年のセントパトリックスデイにもどると、そのころソムリエ氏の『関西赤貧古本道』(新潮新書、二〇〇四年)が進行している最中だった。湯川さんが、ソムリエ氏に向かってしきりと「塾をいっしょうけんめいやらなあかん」と繰り返していたのが印象に残っている。出版や古本にうつつを抜かしていてはあかんのや、まっとうに生きなさい。それは道を踏み外した湯川さん自身の実感だったのかもしれない。
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by sumus_co | 2008-07-23 11:29 | 古書日録

お知らせ

蘊蓄斉は先週末からダウンしており、しばらくブログをお休みいたします。
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by sumus_co | 2008-07-14 07:00 | 古書日録

ピノッキオ

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N氏より頂戴したベンジャミン・スペイドマン(BENJAMIN SPADEMAN)の2003年の目録「文学 1500-2000」に載っていたピノッキオの初版本(Felice Paggi, 1883)から。挿絵はENRICO MAZZANTI(1850-1910)。ディズニーなどのピノキオのイメージからはほど遠い。十九世紀的なイラストレーションである。

ピノッキオは一八八一年に『GIORNALE DEI BAMBINI』に連載され始め、作者のカルロ・コッローディ(カルロ・ロレンツィーニ)には長期間続けようというプランはなかったが、熱狂的に迎えられて新しいエピソードを書き継いでいったそうだ。ロレンツィーニは、一八九〇年、世界中で彼のピノッキオが人気を得るのを知らずに没した。

ちなみにお値段は25,000ポンドなり。
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by sumus_co | 2008-07-11 19:33 | 古書日録