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宮澤賢治全集

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『宮澤賢治全集』(十字屋書店、一九四〇年、装幀=高村光太郎)。とりあえず、いいかげんな修理ではあるが、函を直して、架蔵に耐えるようにした。ほとんど手を入れてない第一巻を見ていただくと分かるように、函の背の巾よりも胴体の方がふくれている。この状態で何度も出し入れしたためか、三巻、四巻の函は分解してしまっていた。

ボール紙で裏支えをして背の巾を広げ、和紙(以前『易経』の端本をバラしたのがあった)で不細工だが角を補強した。三巻と四巻で和紙の色が違うのは、三巻にだけ「紅茶」を少し塗ったため。紅茶染でなじませたわけである。四巻は明日の朝の紅茶で。どうしてこの二つの巻がひどく壊れたのか? 三巻は「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など、四巻は「どんぐりと山猫」「注文の多い料理店」などに当てられている、からだろうなあ。それぞれに次のように始まる「序文」が付いている。

《イーハトーヴオは一つの地名である。強ひてその地點を求むるなれば、それは大小クラウス達の耕してゐた野原や、少女アリスが辿つた鏡の國と同じ世界の中、テパンタール砂漠の遥かな北東、イバン王國の遠い東と考へられる。實にこれは著者の心象中にこの樣な状景を以て實在したドリームランドとしての日本岩手懸である。》

高村光太郎の題字はとてもいい。高村の書はだいたいがバラバラな感じなのだが、これはそれがうまく決まっている。彼は黄山谷が好きだった。

《今、このアトリエの壁に黄山谷の「伏波神祠詩巻」の冒頭の三句だけの写真がかかげられている。「蒙々篁竹下、有路上壺頭」に始まる個所だ。多分「書道全集」の図版の原型になった写真の大きな複写と思えるが、人からもらった時一見するなり心をうたれて、すぐ壁にかかげたのである。それ以後毎日見ている。黄山谷の書は前から好きであったが、この晩年の書を見るに及んでますます好きになってしまった。
 黄山谷(こうざんこく)の書ほど不思議な書は少い。大体からいって彼の書はまずいように見える。まずいかと思うとまずいともいえない。しかし普通にいう意味のうまさはまず無い。彼は宋代に書家として蘇東坡(そとうば)、米元章と並んで三大家といわれていたが、他の二人とはまるでその性質がちがう。東坡の書も米元章の書も実にうまい。まずいなどという分子はまるでない。》(「黄山谷について」高村光太郎)

黄山谷こと黄庭堅(こうていけん、1045〜1105年)は中国北宋時代の書家、詩人である。洪州分寧(現在の江西省修水県)の人。字は魯直、号は山谷道人、涪翁(ふうおう)。黄山谷と呼ばれることが多い。宋代の詩人においては蘇軾・陸游と並び称され、書家としては蘇軾、米芾、蔡襄とともに宋の四大家に数えられる。宋の時代になって、書に新風を吹き込んだというか、個性を打ち出したとされるようだ。たしかに不思議な字である。一癖あるという感じがする。

高村光太郎旧蔵「黄山谷帖」

黄山谷「松風閣詩巻」
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by sumus_co | 2008-02-29 20:44 | 古書日録

大観堂

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『坂口安吾研究I』(冬樹社、一九七四年二刷)を読んでいる。なかなか面白い。驚いたのは坂口三千代の回想で安吾の通夜に来た石川淳がさめざめと泣いたというくだり。

《お通夜の晩は尾崎士郎さんも檀さんも、小林秀雄さんもお見え下さいましたが、きつい表情でいらしたので私の心はおびえてまいりました。私が大切なお友達をとりあげてしまったような気がしてとてもおこっていらっしゃるのだと思ったのです。でも、それはやがて違っていることがわかりました。石川淳さんが伊香保からお見えになって、お帰りの間ぎわ、坊やを抱かれてさめざめとお泣きになりました。それはもう、とめどなく涙を流されました。それをみているうちに私のおびえた心がだんだんにときほぐれ、ただただ惜しんで下さるお気持ちがひしひしと胸にこたえてまいりました》(「亡き夫へ」)

『中央公論』昭和三十年四月号に発表された文章。石川淳の年譜によれば石川は「坂口安吾を悼む」という談話を『別冊文藝春秋』二月号に発表しているようだが、談話のせいか、ここには収録されていない。他には尾崎一雄「坂口安吾追想」に出ている大観堂のくだりにもちょっと驚かされた。あるとき朝早く浅草の染太郎というおこのみ焼屋の亭主(高見順の小説で知られる)を連れて安吾が尾崎の家にやって来た。

《あたりはばからぬ大声で吉原の話をするかと思うと戸塚の大観堂という古本屋兼出版屋の主人北原義太郎君を電話で呼びつける。やがて、大観堂が金を持ってやってくると、さアどこかへ行こう、と、僕を誘う。僕が辞退したので、大観堂と二人で意気揚々と出て行った。
 あとで大観堂にきいたら、あれから二人で二晩飲み歩いて、大観堂はふらふらになって帰宅し、二三日寝込んだという。》
《大観堂の老父が死んで、これから葬式というときに、浅草か吉原方面にいる坂口君から、金を持って直ぐ来いという電話がかかった。これこれで取り込んでいるからかんべんしてくれ、と大観堂が答えると、坂口君が大いに怒って、「お前のおやじの死んだのと、俺が金が欲しいのと、何の関係がある、早く持って来い」と電話口で怒鳴った。いくら何でもそれは無理だから、要るのなら取りに来てくれ、というと、円タクを乗りつけたーー
 このことを、坂口君は「早稲田文学」に書いたが、一方大観堂からも、僕は直接聞いて、面白いな、と思った。「あのときの見幕には、驚ろきましたなア」と大観堂は云ったが、しかし、そういう坂口君を、大観堂は少しも厭がってはいなかった。
「坂口さんは、うちへ来る人の中で、三豪傑の一人です」と云った。あとの二人は誰か、ときいたら、あなたと檀一雄さんです、と大観堂が云った。まるで、押借りユスリのような金の借り方が共通しているのかも知れない》

安吾は「ヒンセザレバドンス」にこう書いている。

《私は貧乏した。然し私は泥棒をしようと思つたことは一度もない。その代り、借金といふよりもむしろ強奪してくるのである。竹村書房と大観堂を最も脅かし、最も強奪した。あるとき酒を飲む金に窮して大観堂へ電話をかけると、たゞ今父が死んで取りこんでゐますからと言ふので私は怒り心頭に発して、あなたの父親が死んだことゝ私が金が必要のことゝ関係がありますかと怒つて、私は死んだ人の枕元へ乗込んで何百円だか強奪に及んだことがあつた。大観堂がさういふ無頼の私を見棄てゝくれなかつたことに就ては、私は感謝を忘れてゐない。勿論証文などゝいふものは書いたためしがないので、大観堂と竹村書房の借金がどれぐらひの額になつてゐるか私はまつたく知らないのだが、サイソクされたことも一度もない。益々借りる一方である。》(『プロメテ』創刊号、大地書房、一九四六年十一月一日)

竹村書房は太宰にも金を無心されていることで有名(?)だが、ここでは尾崎士郎の回想に出ている。

《竹村書房の主人、竹村担君がいつも私たちと行を共にしていたことだけをおぼえている。彼の書きおろした長篇である「吹雪物語」が竹村書房から刊行されたのもその頃であった》(「夢のあと」)

『吹雪物語』は昭和十三年刊。安吾はこの小説を書くために京都に来た。十二年の二月頃から、伏見区稲荷鳥居前町22の中尾という計理士の事務所の二階を間借りした。この住所、じつに懐かしい。このすぐそばに何年か住んだことがあるのだ。たしか山崎書店のいちばん最初の店が稲荷鳥居前町だった。師団街道に面した民家。警察学校の門の前だった。かつてこのあたりに第十六師団の施設があった。警察学校の場所は陸軍兵器廠京都支廠だったとか。
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by sumus_co | 2008-02-28 21:20 | 京のお茶漬け

金子光晴詩集

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村野四郎編『金子光晴詩集』(旺文社文庫、一九七四年、カバー=深尾庄介)。同じ旺文社文庫の自伝『詩人』(旺文社文庫、一九七五年)を久し振りで読み返した。金子には中公文庫に『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』という自伝三部作がある。三十代の頃にむさぼり読んだ。あるとき知り合いの古本屋の主がそれを知ってひとこと。

「金子光晴は青春時代に読むもんやろ」

おっしゃる通り(文学はオクテなんです)。金子自身が万年青年だ。『詩人』は中央公論社のものよりも、当然ながら省略も多いが、それだけに金子の人生が一望できる簡潔さがある。今回、読み返して、金子の一生が親に捨てられて(養子に出されて)拗ねた子供のヤケッパチ魂で貫かれているのがよく分かった。

収穫は百田宗治について。百田が登場しているのをすっかり忘れていた。金子が最初のヨーロッパ滞在から戻り、『こがね虫』を出版した後、同時期の新しい詩人たちにふれたなかにこうあった。少し長いが、メモ代わりに引用しておく。[ ]内は引用者註。

《その多くの新人をひきはなして、諸輩の上に出ることに成功したのは、やはりデモクラシーの時流に乗った若い百田宗治であった。
 百田のことは、それまでにも富田[砕花]の口からいつも聞かされつづけていた。彼はまだ、故郷の大阪にいて、大鎧閣という本屋につとめながら、詩を書いていた。ストリンドベリイの研究をしていた藤森という男と二人で、雑誌を出していた。藤森が死んで、百田がいよいよ東京に出てくるということになった。『ぬかるみの街道』[大鐙閣、一九一八年]という詩集が出て、はじめて僕は、百田の詩をよんだ。百田が東京へ出てくるということは、デモクラシー陣営にとっては心づよいことだった》

《上京してきた百田を、僕は早速見に行った。百田の妻しをりさんに会ったとき、二人の客あしらいのよさに、いい気になって、初対面の家に十二時過ぎまでしゃべって、電車がなくなり、巣鴨から牛込までてくてく歩いてかえった。
 百田のはなしぶりが、客観的で、乾いていて、声が時計のセコンドのようにきこえるので、
「君は、六角時計みたいな男だな」
 というと、彼は、すこし四角ばったじぶんの顔のことと解して、それはなかなかうまいと感心し、
「しかし、六角時計というのはない。あれは、八角時計や」
 と訂正した。》

大正六年に発足した「詩話会」が主体となって新潮社から雑誌『日本詩人』が出ることとなった(大正十年十月創刊)。その編集に百田が抜擢された。

《新人ではあるが、誰とも因縁の少ない百田が、編集をひきうけることになった。》《公器の責任者として公平な立場をまもろうとした百田は、日本詩人という雑誌に、じぶんの体臭、デモクラシーのにおいをつけたと言われまいと、必要以上に警戒した。》《そこで僕が金冠子という匿名で、毎月フランスの詩の翻訳をしたり、林髞をつれてきて、林久策という名で、ドイツの詩の紹介をしてもらったりしてお茶をにごした。雑誌のうらのカットも、僕が描いた。装幀のことも、配列も、新人のあつかいも、一応、意見を出してみることになっていたが、そういうことになると百田の方が上手で、格別、僕の方から新しい案もなかった。》

《作品の問題となると、僕と百田は折りあわない点が多かった。それは自明の理だったが、若い二人は、そのためにいつはてるともない議論を闘わした。僕の方でも遠慮して他の客のいる時には、口をつぐんでしまった。ただ、百田の食客をしていた山崎俊介が、ポーを耽読していて、いつも僕の方に味方した。百田の美点は、自説を固守しながらも、大局においては他人の立場も無視しないという点にあった。
 二言目には、「君、関西では、ものそのものの味を殺さんように料理をするよ。関東の味は、かやくが多すぎて、ものの味は殺されてしまう。君とちがう僕の詩は、ものの味を殺さんための淡白さや」
 と、自論をもち出すのだったが、僕はなんだか話がちがうとおもいながら黙ってしまった。鏡花ファンのしをり夫人も僕の方へついてしまうので、百田はいつも孤立の立場になって、遂に苦笑しておわる。関西の味かもしれないが、百田の詩は淡白がすぎて、水トンか、かき玉のようだと僕は考える。》

《百田が編集しているあいだ、『日本詩人』とはいろいろかかわりあいがあったため、友人の大藤治郎が、日本詩人の官僚主義を排して、玄文社から長谷川巳之吉のあとおしで『詩聖』を出すにあたって、
「二人でやろうじゃないか」
 と相談をもちかけたが、
「僕は、こんどはそっとしておいてほしいんだ。百田との義理があるんでね」
 といってことわる以外はなかった。なんだか政界人の内幕みたいで、いま考えてみるとへんてこりんな気持がしないでもない。》

ちなみに大阪の西区新町にある百田宗治文学碑に刻まれている「何もない庭」(一九二七年)は次のような作品。

  日がかげれば
  何もない庭はさびしい
  日さへ照つてゐれば
  万朶の花の咲きにほふ心地がする

÷

大阪案内ショートムービーに金秀吉「オダサクが愛した法善寺横丁」がアップされた。ほんとにそのまんまのダイジェスト。
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by sumus_co | 2008-02-27 21:30 | 古書日録

ベストセラーだって面白い

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岡崎武志『ベストセラーだって面白い』(中央公論新社、二〇〇八年、装幀=石丸澄子+中央公論新社デザイン室)が届いた。とにかく凄い。『中央公論』と『朝日新聞』の連載をまとめたというのだから、ライターとしてはひとつの頂点を極めたといってもいいだろう。岡崎・石丸コンビも定着した。小林秀雄と青山二郎みたい。

同人誌『BRACKET』で初めて出会ってから二十年ほどか。三十過ぎて単身上京(いま確認してみると、一九九〇年だった)、『十人十色』という不思議な雑誌にもぐりこんだところからスタートしてここまで登ってきた。思えば遠くへ来たもんだ。氏が上京したとき、必ずライターとして成功するとは思ったけれど、今のような状況は想像だにしなかった。まことに慶ばしい。

内容については空想書店書肆紅屋さんが手際よく説明してくれているので、参照されたい(2/24)。ベストセラー相手に突っ込みまくり!

÷

そうそう、同じく『sumus』同人・扉野良人氏の本だが、いよいよ四月刊行に決定したもよう。装幀は空中線書局の間さんだそうだ。今から触れるのがもったいないような形になるのが目に見えるよう。期待大なり。

÷

ソクーロフ「静かなる一頁」とコクトーの「オルフェの遺言」を見終わった。ソクーロフは期待したほどでなく、無声映画ふうなつくりに新味はあるものの、きわめてだるい作品だった。タルコフスキーと並べて欲しくない。「オルフェの遺言」はコクトー七十歳の作品で、そのまんま、死と不滅がテーマ。ビートたけしの「座頭市」を連想した。まったくガキ大将が主人公の学芸会のノリ。映画になっとらん。

ジャン=ピエール・レオが少年役で出演、ワンシーンだけ。コクトーは一九五九年のカンヌ映画祭でトリュフォーの「大人は判ってくれない」の授賞式に立ち会っていたことによる起用らしい。他にユル・ブリンナー、ピカソとジャクリーヌらもちょい役で出演。ジャン・マレーはエディプス役で最後の最後に登場するが、コクトーとすれ違うだけの意味深長な設定(試写を観たマレーは落ち込んだそうだ)。

取り柄は南仏の風景だろう。レ・ボー=ド=プロヴァンスの放棄された石切場とはなかなかいいところを見つけてきたと思う。そこに近在からかき集めたジプシーたちが居並ぶシーンは印象的だった。他にはジャニーヌ・ジャネの衣装、彫刻その他の大道具が目を惹いたていど。
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by sumus_co | 2008-02-26 21:02 | おすすめ本棚

流刑地にて

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『GEORGES DE CHIRICO』(リブレリ・ガリマール、一九二七年)。文庫本より少し大きめの「新しいフランスの画家たち」というシリーズの一冊。デ・キリコがフランスの画家なのかどうかやや疑問だが(ギリシャ生れのイタリア人でドイツの美術学校に入った)、最初にフランスで認められたことは間違いない。「形而上絵画」というのは二番目のようなちょっと黄昏れた心象風景や構成的な静物画をさす。

÷

某氏より北森彩子詩集『流刑地にて』(花神社、一九八一年)を頂戴した。タイトルからしてカフカへの強い共感があるようだが、一九二六年生れの作者は五十五歳まで《心の奥底に、大きな穴があいていて、その傷口を、いつも、うつろな風が吹き抜けているような思いで、生きて来た》(あとがき)そうである(そう言えば、先日のジェニー・ホルツァーも《その穴は空けておこう》と書いていた)。この詩集を代表するにはふさわしいかどうか、いちおう書物ブログなので「書物」と題された作品をかかげてみる。全文。

 長い、ながい、書物だった。長い、ながい、あいだ、身じろぎも
せず、読み耽っていた。
 それは、入り組んだ、巨大な青銅の迷宮のような、おそろしい
魅惑に満ちた世界だった。
 かれの中を、そして、その黒檀の椅子の周りを、たくさんの月と
星が、たくさんの春と夏が、光の塵を漂わせながら、手をつないで
通り抜けて行った。
 最後の頁を閉じて、ふと眼をあげると、鏡の中の、双のこめかみ
には霜がおりていた。
 書物の外の世界の夕日は、あり得ないほどにも輝かしく、ひょ
う・ひょうと風が吹いていた。だが、書物の中の日射しは、それと
は違ったふうに美しく、そこでも風が吹いていた。
 夕映えの雲に埋れて、頬杖をついて、ひとは考えた。
 自分の一日は、いったい、幸福だったのか、不幸だったのかと。

÷

柳居子徒然(メモ帳欄参照)に「今だから…昭和さ ある男のぼやき」というブログが紹介されていた。どうやら森繁久彌が管理人らしい。昭和の芸能に興味ある人は必見だ。上田吉二郎と武智豊子、なつかしい!
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by sumus_co | 2008-02-25 22:05 | 古書日録

ヂォルヂォ・デ・キリコ

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外山卯三郎『ヂォルヂォ・デ・キリコ』(金星堂、一九三一年)。金星堂の刊行物にはとても手がでないのだが、これは手頃な値段で入手。一ページだけ横に裂けているため。それ以外はわりといい状態だし、むろん読むのに支障はない。

「新洋画叢書」というシリーズの一冊で、デ・キリコの画集としては日本初のものか(?)。奥付の広告にはこのような名前が並んでいる。

 マチス
 ピカソ
 スゴンザツク
 スーチン
 ユツトリロ
 ヴラマンク
 モヂリアニ
 シアガール
 リユルサ
 デユフイ
 ブラツク
 ド・キリコ
 キツスリング
 ドラン
 フリエーツ
 ルオール
 グロムメール

ただし、この画集に収められている作品はほとんどが一九二六年、二七年の作。いわゆる形而上絵画(一九一〇年代制作)はごくわずかで、しかも代表作ではない。叢書の画集としては上出来とは言えない。

÷

アラン・ロブ=グリエのお別れ会が22日にカーン(ノルマンディ)でしめやかに行われた。親族の他に éditions de Minuit や映画の関係者らが八十人ほど集まったという。彼らはこのようなテクストで迎えられた。

"J'aime la vie, je n'aime pas la mort. J'aime les chats, je n'aime pas les chiens. J'aime les petites filles, surtout si elles sont jolies, je n'aime pas beaucoup les petits garçons. (...) Je n'aime pas les salades journalistiques. Je me méfie des psychiatres. J'aime beaucoup agacer les gens et je n'aime pas qu'on m'emmerde."

[私は生が好きだ、死は好きではない。私は猫が好きだ、犬は好きではない。私は少女が好きだ、とりわけ可愛い少女が、私は男の子はそんなに好きじゃない。……私はジャーナリステックなホラは好きじゃない。私は精神科医を信用しない。私は人々をいらつかせるのが大好きだが、私がうんざりさせられるのは好きじゃない]

この文章はロブ=グリエが、一九八一年、ロラン・バルトの一周忌(l'anniversaire de la mort de Roland Barthes)に自ら読み上げたものだそうだ。

÷

朝、雪が積もっていた。午前中はニーナ・シモンのファースト・レコーディングを聴きながら絵の仕事。音はけっこう熱いが、すきま風は冷たい。午後は、頼まれた原稿に苦しむ。あまりにテーマが大きい(本が一冊書けるくらい)のに文字数は少ない。しかも記述には正確を期す必要がある。当分、悩まされそう。逃避して宮澤賢治全集の函を直す。
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by sumus_co | 2008-02-24 21:23 | 古書日録

ことばの森で

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『ジェニー・ホルツァー ことばの森で』(水戸芸術館現代美術センター監修、淡交社、一九九四年、デザイン=大渕真一)。ブックオフでゲット、105円。ジェニー・ホルツァーは一九五〇年オハイオ州生まれ。七〇年代後半より自作のテキストを公の場所に提示するという作品を発表してきた。最初の頃の「TRUISM」(自明の理)はやや紋切型の、まあマーフィーの法則アート版といったかんじ。例えば

 AN ELITE IS INEVITABLE
 BAD INTENTIONS CAN YIELD GOOD RESULTS
 CHILDREN ARE THE CRUELEST OF ALL

だが、徐々に内容は詩的に深まりをみせてゆく。次は「LAMENTS」(悲歌、一九八九年)より。原文はテキストがセンター合わせで配列されている。

 I HAVE A
 HOT HOLE
 THAT WAS
 PUT IN ME.
 I CAN LIVE
 WITH IT.
 PEOPLE MADE IT
 AND USE IT
 TO GET
 TO ME.
 I CAN HURT
 IT TOO BUT
 USUALLY I PUT
 MY THINKING
 THERE FOR
 EXCITEMENT.
 WHEN MY MIND
 IS RIGHT I
 CAN SAY WHAT
 NO ONE WANTS
 TO HEAR.
 I BRAG ABOUT
 KNOWING
 BETTER,
 BUT THE LAST
 KIND PART OF
 ME RAVES
 BECAUSE
 I WILL NOT
 BE THE ONLY
 DEAD ONE.
 I KEEP THE
 HOLE OPEN.

その他の作品は下記サイトなどでご覧あれ。

jenny holzer
Jenny Holzer
Tate Collection

÷

本日は仕事の合間に、古書の修理。箱がボロボロになった『宮澤賢治全集』(十字屋書店、一九四〇年)一〜五の五冊を格安で入手した。他に第六卷と別巻の全七冊、揃っていればけっこうな値段のようだ。文圃堂書店版(『文字力100』参照)を踏襲していて、装幀は高村光太郎。ただし、どういうわけか、箱がすべて本体の束(つか=厚味)よりも1〜2ミリていど窮屈にできている。出し入れしているうちにバラバラになってしまい、それを旧蔵者が紙やテープで補修してある。テープをヘキサン(シールはがし液)で取り除き、厚紙を当てて少し厚味を増やして接着し直す。多少ぶさいくだが、保管のためには仕方がない。完全に分解していない箱は糊付だけで済ます。

夕刻より雪が舞う。
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by sumus_co | 2008-02-23 20:49 | 古書日録

GUITARIST

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「コルボウ詩集第1回の会」昭和二十六年(コルボオは誤植か)。たまたま出てきたコピーなのだが、出典が分からない。架蔵ではなく借りた本だった。天野隆一『京都詩壇百年』(文童社、一九八八年)だろうか(KYO様、ジャケットについてご教示ありがとうございます。これ分かりますか)。

昨日触れた「キアラの会」も「コルボウ詩話会」と同じ昭和二十四年に結成されたというから、その頃は敗戦直後のドタバタが一息ついた時だったのだろう。さらにもうしばらくすると、雑誌を出したくなるのである。

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伊勢昌之のCD「GUITARIST MASAYUKI ISE」(伊勢音楽事務所、一九九七年)と「伊勢BAND JAPANISMO」(伊勢音楽事務所、一九九五年)を吉上氏より頂戴したので、毎朝聴きながら仕事をしている。吉上氏は先に紹介したエッセイのなかで伊勢のギター教室での教授法を次のように描写している。

《レッスンは、基礎練習と音楽理論だった。つまりドレミファソラシドを弾く練習と初歩的な楽典や和音の勉強が中心で、メトロノームに合わせてひたすら、ドレミファを弾いた。》《ある時期は、メトロノームに合わせて、一日5〜6時間もスケールやアルペジオ練習をしていたころもある。》

《30数年前だってジャズ教室というのが、いろいろ出来ていてプロが使っているかっこいいフレーズを教えていたらしいが、伊勢教室ではそんな教え方はしていなかった。本当に弾きたくなれば、いつだって弾けるようになるのだから、あせらず基本練習を続けることだ、というのが伊勢昌之の教え方だった。》

伊勢はボサノヴァギターの草分けとして幻のギタリストと呼ばれることもあるらしい。奇行も多く、喧嘩早くて、当時のジャズメンの例にもれずラリッてもいたという。しかし、雑念なく、ただギターの音に耳を傾けていると、クラシックもジャズもない、一種の求道者がひたすら求める誠実な響きのみが伝わってくる。

「GUITARIST MASAYUKI ISE」には渋谷毅とのデュエットも収録されている。好みの曲は「Green sleeves」「Orfeu negro medley」「Bossa de Icét」。二枚のCDはどちらも伊勢歿後にリリースされた。享年五十というから、早過ぎる死だった。
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by sumus_co | 2008-02-22 20:15 | 古書日録

風景終刊号

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『風景』終刊号(悠々会、一九七六年四月一日、表紙=風間完)。昭和二十四年八月三日に「キアラの会」の第一回会合がもたれた。野口冨士男によれば、「ある人」からこういう会を始めたいからと相談があって舟橋聖一らに持ちかけたところ、舟橋は「ある人」をはずして、舟橋、豊田三郎、船山馨、北條誠、八木義徳、三島由紀夫、野口の七人でスタートさせた。文士たちの親睦会である。

そして昭和三十五年に、紀伊國屋の田辺茂一から、都内の書店でつくる団体「悠々会」がサービスとして配る雑誌を出したいのでその編集を引き受けてくれという話があった。キアラの会で相談したところ野口に一任することとなり、その年の十月に創刊号が発行された。

「風景」という名前は野口が北原白秋の雑誌『近代風景』を提案し、近代を取って『風景』とのみ命名された。表紙画の風間完はちょうど舟橋聖一の毎日新聞連載小説「新・忠臣蔵」の挿絵を木村荘八からバトンタッチして描いていたので、担当の日下令光が依頼した。編集長は初代が野口以下、有馬頼義、吉行淳之介、船山馨、澤野久雄、八木義徳、北條誠、野口、八木、吉行。編集室は渋谷の田辺邸、費用もすべて田辺がまかなっていた。

田辺の文章によれば《今更、赤字の総額など報告しても致し方ないが、年月を加算すると、二千万ちかくになろうかと思われる》。ただ、配りものなのだから、田辺のこの言い方はちょっとおかしい。田辺は雑誌が好きで戦前からいろいろ刊行しているけれど、長続きしたことがない。本人も飽きっぽいと書いている。本心は早く止めたかったのだろう。ところが『風景』は例外的に続いた。これはひとえに舟橋聖一の執念による。だから舟橋が死んだとたんに終刊となった。

野口の言う「ある人」が誰なのか気になるところ。ひょっとして川端康成か(?)。山口瞳が舟橋追悼文に《川端さんと舟橋さんは仲が悪いと思っていた。そういう噂を聞いたことがある》と書いている。だが、川端はノーベル賞受賞前後の多忙にもかかわらず「落花流水」「一草一花」などを『風景』に連載した。川端という人は不思議な人だ。

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ペリカン書房のレッテルを某書店さんより頂戴した。これはレッテルというよりもノートブックを小さく切ってペリカンのゴム印を押しただけの手製の書店標。「心影」とあるが、「日本の古本屋」には今のところ、完全一致ではヒットしない。『心影・書影』(柳田泉、桃源社、一九六四年)ならたくさん出ているが。国会には二点あった。
『心影』山崎為人(瑠璃社、一九四一年)
『心影』綾瀬耿美(弦洋社、一九三三年)
山崎為人の句集かもしれない。ペリカン書房については下記サイト参照。

本郷界隈をあるく
ペリカン書房(ペリカン・ランチルーム)
ペリカン書房品川力追悼特集

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『英吉利単語篇』の出所が判明した。詳しくは下の2月19日欄を参照のこと。
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by sumus_co | 2008-02-21 21:46 | 古書日録

コルボウ詩集

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『コルボウ詩集1952』(コルボウ詩話会、一九五二年、装幀=佐々木邦彦)。厚表紙だが、ジャケットがあったのかどうか? スマートというのとはちょっと違うが、なんとも言えないシャレた感じがいい。「コルボウ詩話会」は一九四九年五月に天野忠、田中克己、城小碓(本家勇)、天野隆一らが創設した。一九六〇年まで続き、毎月小さなテキストを作った。テキスト『コルボウ』は二十四年八月に創刊され、山前実治が経営する印刷会社双林プリント内の文童社から発行された。テキスト全三十六集、『コルボウ詩集』全十集になった。「コルボウ詩話会」から別れて『骨』そして『RAVINE』などの詩誌が生まれた。以下は本書より天野忠の「詩人の家」全文。後年の天野とは少し違った響きがある。

 白蟻が虫歯のように柱をボロボロに喰つてしまつた

 俺はつっけんどんなふりをして
 冷たい陽がたまつているところに立つている
 俺の立つている湿つたところから
 子供が探していたおもちやのきれつぱしが見える
 鳴らないままで壊してしまつたおもちやの笛が
 俺の頭の中でいまは
 奇妙に純粋なひびきをふるわすではないか

  うじようじようじようじようじよ

 のつぴきならぬ陰険な奴が無数に生れてきて
 おもちやの笛のひびきと
 まざり合つてしずかにざわめいている

 俺は実にさびしいんだ

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『雲のうえ』6号(北九州にぎわいづくり懇話会、二〇〇八年一月)。静かに話題の雑誌、北九州市企画政策室が作っているが、これみよがしのPRのない、ゆったりとしたグラフ雑誌になっている。牧野伊三夫、久家靖秀を中心にうまくまとまっている。

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アラン・ロブ・グリエ死去した。アラン・レネの「去年マリエンバードで L'Année dernière à Marienbad 」(1961)しか知らないが。
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by sumus_co | 2008-02-20 20:50 | 古書日録