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カテゴリ:古書日録( 1362 )

芸術家の眼

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宇佐見英治『芸術家の眼』(筑摩書房、一九八四年五月一〇日)。

さきの土曜日、ギャラリー島田で木下晋さんと洲之内徹の話をさせてもらった。木下さんはさすがに洲之内の最期を看取った方だけあって、その実像をよく見ておられる。周辺の誰彼についての情報、当方のような部外者が知り得ないシークレットな部分も、トークショーの前にいろいろとうかがった。忌憚のない話し方にも人柄がうかがわれた。トークでは小生は主に伝記的な事実について解釈をほどこしながら、洲之内徹の行動パターンをまとめ、またその気まぐれシリーズの面白さについて語った。まずまずの内容だったように思う。

トークの終りに参加者からの発言があった。その方は洲之内徹と親しく話したわけではないが、かつての現代画廊にはしばしば足を運んでおられたということだった。「でも、私は洲之内さんの文章は評価していません。宇佐見英治さんの詩的な文章とくらべるとまったく雑駁なものだと思います」とおっしゃるではないか。

宇佐見英治……はっきり言って、ほとんど読んだ記憶がない。過去の拙ブログを検索してみると『季刊湯川』の執筆者として名前が挙がっているくらいだ。

季刊湯川
http://sumus.exblog.jp/9386733/

たしかに雑誌の記事で少しは読み『同時代』の宇佐見英治追悼号は誰かにもらって持っていたような気もするが、具体的な印象は希薄だった。そこで「宇佐見英治の文章が好きな方は、たしかに洲之内はだめかもしれませんね。雑駁なところが洲之内の魅力だと思います。どちらがいいとか、悪いとかということではないでしょう」というふうにお茶を濁しておいた。

翌日、ネットで調べると、宇佐見英治はたくさん本を出している。湯川書房からも出ている。どれといって読んだことはない、どころか買ったことさえない。これはマズイ。早速安いのをみはからって二冊程注文。その翌日にはもう届いたのでざっと読んでみた。

結論から言うと、発言氏とまったく逆の感想を持った。たしかに詩的である。インテリである。湯川さん好みだとも思う。しかし退屈だ。『芸術家の眼』では表紙画にもなっている画家島村洋二郎のことを描いた「或る画家ーー島村洋二郎のこと」が読み応えがあった。しかしそれは島村の文章の引用が凄いということであって、島村の数少ない親友ならもっと別のことが書けたのではないかと思う。

そこに島村の友人豊倉正美の追悼文が引用されているので一部を抜き書きしてみる。

《交り、といってもごく短い数年間のことです。そのはじめのころ、あさはかにも私は、心からのいたわりをもって、彼のいのちをよろこび、祝しつつ、冷や飯の鍋をつつき合った。その頃の様々な思い出が、今となってはあまりに苦しく胸を痛ませます。やがて素直にいたわることが出来なくなった。何というおごり、何というたかぶり。己れの絵のために、他人の繊細な感情を弊履の如く踏みすてにして、顧みない粗暴な面魂。
「朝から歩き廻ってまだ米粒を口にしない」と訴える人に、一体何で飯つぶを捧げねばならぬ義務があるのか、とこれは会ったあと苦く心に喰い入る、いつもの思いでした。》

そして宇佐見はこれにつづけてなかなかいい文章を書いている。

《これが島村を知っていた数少ない人々の多くが、現実的につきつけられた疑問であった。彼はまわりの人たちが、彼を助けるか、捨てるかどちらかの態度を決定せざるを得ないような生き方をした。彼の絵は自由美術で落選したし、彼はずいぶん甘い売絵も描いた。彼は私の親戚、私の友人のまた友人、その弟、というふうに絵を売り歩いた。「絵を買って下さい。絵具を買う金がない」はじめはそうだった。だがそれがとうとう「朝から米粒を口にしない」という駆込みにかわった。》

島村は宇佐見に宛ててリラダンの言葉を引用した手紙を送っていたという。宇佐見はリラダンの生き様と島村を引き比べる。

《その島村は、あの流竄の王子、ヴィリエ・ド・リラダンの高志を胸に、万人が野犬のように餓えていた戦後の暗い時代を、よろよろと生きた。乞食のように。物貰いのように。だれでもリラダンの句を盗むことはできる。ピカソやゴッホの、意匠や色を盗むことができる。しかし誰が、リラダンのように《最高の讃辞は無関心なり》として、最後まで魂の曠野を真の実在として信じ、貧窮、飢餓、狂気、敗残をものともせず、生きることができるか。》

実は洲之内徹もまた島村洋二郎との出会いについて書いているのだ。島村を叔父と呼ぶ女性から遺作展をやって欲しいと言われて、名も知らぬ作者の絵を初めて見た。

《彼女が包みを解いて出した四号位(色紙大)の、額に入った絵を、私はソファの横の棚の上に置いてしばらく眺めた。寒い色と太い線を使って描いた男の顔で、作者が何か激しい想いに迫られているのは分るが、モデルの特徴の分析や把握は稀薄で、形式化が目立つ。絵は強いようで弱い。》

この絵は宇佐見英治所蔵のものだった。洲之内にしてはよく見ている。この後、後藤洋明氏が『同時代』の島村追悼号を届けてくれて島村の略歴を知り、上述の豊倉正美の追悼文を洲之内も読むことになる。

《宇佐見氏宛の手紙(昭和二十七年四月、大田区馬込より)の中に、たとえばこんな言葉がある。「リラダンの云うところの《金剛石の色に輝くエエテルの中に夢想された純潔にして蒼白な思想》にまで昇化された一枚のタブロ」。だが、そういう彼は、客観的にはどういう存在だったろう。追悼文集の中の、豊倉正美氏の「ものの怪」という文章をここへ引いてみよう。》

上述の文章が引かれて、そしてこう洲之内は切り捨てる。

《凄い文章だ。島村洋二郎には私は会ったこともなく、見たこともないが、眼に見えるようだ。こういう人間がいるものだし、そういう人間に対して誰でも本音はこうだ、というところがこの文章にはある。第三者にはリラダンもハチの頭もない。》

《島村洋二郎が大森馬込に住んでいた昭和二十七年頃には私も大森にいた。眼に浮かぶようである。私にとっても「この頃もっとも貧窮す」という時期であった。もしかすると、そういう彼と私とは、大森の池上通りのガードあたりですれちがったということもあるかもしれない。
 いずれにせよ、この文章を読んで、島村洋二郎の遺作展をやろうと心に決めた。》

「第三者にはリラダンもハチの頭もない」は宇佐見が「あの流竄の王子云々」と書いた部分に対応するだろう。二人の文章の違い(人間の違い)がはっきり現れている。好き嫌いは勝手だが、小生はハチの頭を取る。それにしても、この島村を巡る文章には図らずも典型的な洲之内の絵の見方が露呈しているように思われる。絵そのものよりも絵や作者と自らを繋ぐものにひきつけられるというスタイルである。

島村洋二郎遺作展は一九八七年八月二四日から九月四日まで現代画廊で開催された。その二ヶ月後には洲之内の死が待っていた。
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by sumus_co | 2013-09-24 21:43 | 古書日録

松商交友会誌と書架

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『松山商業学校交友会二十周年記念雑誌』(大正11年3月)。この写真は同誌より「全校生徒」。明日のトークのために洲之内徹の資料箱を開いていると、この雑誌が出て来た。洲之内徹は松山中学(現・松山東高校)出身なので、どうしてかなと思っていると、これを見つけてくれた某古書店主のメモが挟んであった。

《ふせんのはってあるところの卒業生「洲之内元太郎」は徹の父親?》

この冊子からこの名前を見つけ出してくれるとは、ただ者ではない。たしかに洲之内元太郎は徹の父である。松商の第一期生だった。

松商と言えば野球である。当時から野球には力を入れていたらしいが、まだこの時点では全国優勝は果たしていない。大正八年に全国大会(全国中等学校優勝野球大会=現在の全国高校野球選手権大会)に初出場し二回戦負け、大正九年は三回戦で慶応に負けている。十年もやはり三回戦で京一商に敗北……。とにかくレアな洲之内徹資料である。

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もう一冊紹介しておきたいのはこちら。『えびな書店古書目録書架』十四号(一九九一年一二月)特集・洲之内徹と気まぐれ美術館。これも同じ古書店から買った。洲之内徹に関連する画家たちの画集や資料などがズラリと掲載されている。青山二郎特集とともに、えびな書店でなくてはできなかった画期的な特集だろうと思う。ここに後藤洋明さんが「気まぐれ美術館の勝手口から」という後藤さんらしい文章を執筆しておられて、それもまた貴重な証言のように思われる。後半の方を一部引用しておく。「洲之内さんの日常的な思い出」について。

《洲之内さんはぬる目の風呂が好きだとか、イモが好物だ、特に大学イモが好きだったとか、堅い豆をよくかじっていたとか、種を炒ったもの(ヒマワリや、カボチャや、スイカの種子)を上手に殻だけ舌の上に残して喰べていたとか、鉛筆の削り方が実にうまいとか、(もっとも図面を引ける人は、みんな上手だと思う。洲之内さんは美校の建築科だもの。)こんなどうでもいいことを書いてもしようがないではないか。》

こういう日常の記録というのが残りにくい。よく書いてくださった。種子を好んだというのは中国大陸での生活が長かった(八年間)ために違いない。

《思えば、洲之内さんは、たくさんのものに囲まれている時が一番幸せだったんだろう。たくさんの絵に囲まれ、多くの女性から愛され、憎まれ、そして晩年は、いろんなジャンルのレコードやテープに囲まれ、(戦時中、北支の太原の洲之内公館には、かなりの量のクラシックレコードが集められていたという。)いつも回りが賑やかだった。賑やかなのが大好きだった。賑やかでなければじっとしていられないのだ。何かから常に逃れようとしていたからではないだろうか。
 子供みたいな所もあると思う。新しい玩具を与えると、さっきまで、手に握りしめていたのを放り出し、新しい方に夢中になる、それでいて古い方を片付ける様とすると、ダメだそれも置いておけ。まるで駄々っ子の様。寂しがり屋なんだな。》

この観察もたいへん参考になる。玩具を欲しがる子供なのだ。まあ、これはコレクター的な性格をもつ人はみんなそういうものであろう。ただ、モノを集めることについて洲之内自身はこういう風に書いている。

《もともと、私には物を集める趣味、あるいは意志というものがない。これは、私が、概ね常に一所不在、いわば漂泊と遍歴の半生を過ごしてきたことによるものだろう。現実にそうだったし、精神的にそうだった。
 いつどこへ行くことになるかわからない、いつどうなるかわからないという暮らしの中で、人がまず心掛けるのは物を持たないということ、身軽でいるということだろう。考えてみれば、私は、非合法の左翼運動をしていた青年時代、その後に続く、足掛け九年中国の戦線で過ごした戦争中の時代、そしてその後の、完全無職無収入の三年間を中にはさんでのどん底の貧乏暮らしの時代の、どの時代にも、物を持たないというのが生活信条のようなものであった。》(洲之内徹「コレクション考」)

これもあながち嘘だとは思えない。だから生粋のコレクターとは呼べないだろうが、ただし、人(とくに女人)やモノに執着することは尋常ではなかった。

《ただ、私はときとして一枚の絵と、到底かりそめとは思えない出会い方をすることがあり(たとえばこんどの展覧会に出ている海老原喜之助の『ポアソニエール』とか、重松鶴之助の『閑々亭肖像』のような)、そういうときは勿論置き場所のことなどは考えず、あらゆる手を尽して、なんとかその絵を手に入れようとした。》(同前)

*明日は午後五時よりギャラリー島田で洲之内トークです。ブログは休みます。
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by sumus_co | 2013-09-20 21:30 | 古書日録

VOU ANNUAIRE 1954

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『VOU ANNUAIRE NOVEMBRE』(VOU CLUB、一九五四年)を入手した。

鋭角・黒・ボタン
http://sumus.exblog.jp/11332391/

以来の収穫。「VOU」は「バウ」と読むらしい。本書の横文字はすべてフランス語である。ならば「ヴゥ」なのだが。
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by sumus_co | 2013-09-18 19:46 | 古書日録

炒めたベーコンのある柔らかい自画像

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『Salvador Dali rétrospective 1920-1980』(Centre Georges Pompidou, 1979)より「炒めたベーコンのある柔らかい自画像 Soft self-portrait with fried bacon」(1941)。[後註:読者の方より「柔らかい自画像、炒めたベーコン添え」というメニュー用語に引っ掛けた題のではないかとのご指摘あり、なるほどなあと思う次第です]

「美は制度である」とはどういうことか? 自分でも、適当に発言していたので少し真面目に考えてみた。いろいろ考えたが、小生の言いたいことは単純で、絶対的な美の規範はないということである。灰とダイヤモンドどちらが美しいか。あらゆるものは美しい、そしてあらゆるものは美しくない。制度とは人間社会のなかで作り出される仮の秩序であろう。ボノボなら違った判断があろうし、もし昆虫にそんな美の制度があるとしたら、それは人間の想像もつかないほど高度で精緻な存在かもしれないと思ったりする。昆虫のあの美しさがそれを裏付けるかのようだ(!?)

美という漢字は『説文』によれば「羊」と「大」の組み合わせである(ただし白川静は異論を唱えている、羊の全体であると)。大きい羊は《美と善と同意なり》。この判断からして明らかに遊牧民的な制度に基づいたものであろう。羊のいないところではそもそもこの発想は成り立たない。「うつくし」は元来が、親の子に対する、また年長者の年少者に対する愛情表現(いつくしむ)と同じ源だとも言うが、大陸的な発想とは真逆である。なにもなにもちひさきものはみなうつくし。

また思うに、美はおふくろの味である。『美味しんぼ』のなかに鮎対決というのがあった(アニメで見たのですが)。父と子、どちらの料理した鮎がうまいか。結局、父が勝利したのだったと思うが、その勝因は審判になった人物の故郷、四万十川の鮎を使ったことだった。人間は社会的な動物である。あらゆる判断基準が社会のなかで形成されていくのはごく当たり前のことである。美とはどういうものであるか、ということも社会によって決定されていく。

もっと言えば、その判断はDNAによってあらかじめ決定されている、とも考えられないことはない。それなら、すくなくともDNAを共通するグループ内においては美の秩序はある程度ひとつの基準に従っていると考えてもいいかもしれない。ボノボくらいになると、ほとんど人間と同じDNAを持っているはずだから、おそらく人間とそう違った基準で動いているわけではないだろう。

ただ、ボノボが人間になった(かどうかは分からないけれど、もしそうならどうしてボノボはボノボのままなのだろう? ボノボでいたかっただけなのか)のは明らかに(と小生は思う)ボノボ的な秩序から逸脱したからではないか。

ここで、ダリの絵に戻るのだが、昭和十六年に日本人が(いやアメリカ人でも誰でもいい)この絵をいきなり見たとしたら、いったいどう判断しただろうか。この奇妙な面の皮を前にして、そもそも美とか美でないとか、そういう判断までたどり着いただろうか、それが大いに疑問になってくる。もちろん今現在でもそういう疑念は消えないわけである。たとえば以前紹介したスペインの画家ベラスケスの自画像と較べてみよう。

自画像 ベラスケス
http://sumus.exblog.jp/13420632/

おそらく十七世紀にあっては、この自画像でさえかなりの革新性を持っていたのではないかと疑われる。もしベラスケスが近代人に近い眼を持っているとすれば、ダリはまるで昆虫的な視覚を獲得したのではないかとも言えるほどその飛躍は大きいと思えるのである。

人間の面白さは(素晴らしさでは決してない)、この逸脱していく精神を保っていることではないだろうか。立派な舗装道路が一本まっすぐ通っている荒野があるとしよう。舗装道路から外れて荒地を走る者が必ずいる。少数だが。するとそこに道ができる。道ができれば人が通る。人が通れば車も通る。車が多くなれば道路ができる…行く先はまったく違った場所である。これが制度というものではないだろうか。
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by sumus_co | 2013-09-17 21:41 | 古書日録

出獄の日のO氏

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洲之内徹のつづき。『気まぐれ美術館』の「まぼろしの名作二件」にこの「出獄の日のO氏」が登場している。林倭衛の仕事のなかでも最もよく知られるのがこの作品である。詳しくは下記参照。

鬼才・林倭衛の”まぼろしの名画” 古沢襄
http://blog.kajika.net/?eid=710430

洲之内は小崎軍司の労作『林倭衛』(三彩社、一九七一年)を読んで自分の文章が引用されていることに驚く。洲之内の文章というのは「出獄の日のO氏」を戦前の内務省警保局長だった唐沢俊樹が懇望して所蔵していたことがあったという国画会の画家・馬越桝太郎の談話を書いたものだった。二・二六事件が勃発したため万一のことを慮って唐沢は急ぎその絵を林家に返したという。

これに対して小崎は疑問を呈しつつ昭和十一年二月十日の『中外商業新報』に載った「魔子ちゃんに甦る 奇しき父の画像、成長した「大杉栄氏の愛嬢と林画伯のめぐり会い」という記事を紹介している。この記事によれば、その絵はずっと林倭衛のアトリエに秘蔵されており、魔子(伊藤真子)がそれを見せてもらいに訪ねるというストーリーになっている。ただし小崎は唐沢俊樹が自分が所蔵していたことを隠蔽するためにでっち上げて書かせたものだろう、そして絵そのものは林が唐沢に買ってもらったのではないかと推測している。

しかし洲之内は、唐沢がすすんで「出獄の日のO氏」を持ちたいと考えた方がスジが通ると反論するのである。確かに、取り締まる側の人間が戦利品か記念品のようなものを欲しがっても不思議ではない。それはそれとして、小生が気になったのはそんな深い話ではなく、林が書き込んだ絵の説明の方である。

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 Cde Osugi.
 Au jour de
 Sa libération.
  Le 17 Août 19.
  S. Fayashi.

 同志大杉
 彼の釈放の日に
  一九一九年八月一七日
  S. ファヤシ

一番気になるのは「Cde」である。カマラド(camarade)は友達とか同僚とか同じ境遇にいる者を言うときの表現らしいが、この場合はごく普通に訳せば「同志」でなければならないだろう。現在でも左翼新聞では《DÉCÈS DE NOTRE CAMARADE PASCALE われらが同志パスカル死去》などというふうに使われる。

そういうふうに考えると、どうして「O氏」になったのかが疑問になってくる? 「Osugi」と(ただしOがCに見えるように書かれているが)明記されているにもかかわらず。この作品は大正八年に二科展に出品する間際に官憲から撤回を求められて展示されることはなかったそうだ。あらかじめ「同志」はまずいぞと「O氏」にしたのだろうか。それなら「出獄の日」も言わずもがなではないか。官憲の目をはばかるなら単に「O氏の肖像」くらいにしておくところであろう。何より余計な文言など書き込むべきではなかった。

そもそもこのタイトルはその当時からのものなのだろうか? キャンバスの裏側に作者自らが日本語で記しているとか、そういうことなら分かり易いのだが、洲之内はその点については何も書いていない。

もうひとつ、ハヤシのつづりが「Fayashi」となっていることにも注目した。小生も同じ姓なのでよく分かるが、フランス人は普通には「H」を発音しないため「Hayashi」と書くと「アヤシ」と読む。藤田嗣治が「Foujita」と綴っているのも似たような理由で、「Fujita」とすると「フュジタ」のような読み方になってしまうのである。アヤシよりもファヤシの方がまだしもと林は思ったのかもしれない。

この肖像、大杉の写真と比較すると、似ているとは言い難い。頬が痩けているのは獄中生活によるものとして許すとしても。あるいは故意にあまり似ないように描いたとか、そういうことなのではないだろうか。さすがにこれはうがち過ぎかもしれないと思いつつ、想像をたくましくしてみたくなる絵である。
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by sumus_co | 2013-09-16 22:02 | 古書日録

字考正誤

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長谷川良察『字考正誤』(森慶造校訂、民友社、一九一二年三版)。この本については下記の通り。

『字考正誤』は、寶永年間(十八世紀初)に長谷川良察という人物が、明代の『字考』を『説文解字』『正字通』『字彙』などに拠って*1欄外校訂した書である。その際に附された序文をもつものが、明治末年に森慶造校訂『字考正誤』(民友社)として刊行されている。この明治版は比較的入手しやすく、時には千円以下で出ることもある。私も今夏、約千円で入手したばかりである。(黌門客)

 *

内堀さんの『古本の時間』(晶文社、二〇一三年)を読んでいて、面白いと思ったことのひとつに「立ち上がる」と「立ち上げる」の使用がある。正確ではないかもしれないが、前半に「立ち上がる」が二度使われており、半ばより後の部分に三度ほど「立ち上げる」が出ていたように思う。それぞれ一ケ所ずつ引用すると、二〇〇六年初出の「吹きさらしの日々」に《私は揚羽堂が立ち上がる一年に付き合ってしまった》とあり、二〇一一年初出の「書物の鬼」に《私も立ち上げに加わった》とある。

「立ち上げる」はパソコンから生まれた新語?!
http://d.hatena.ne.jp/hiiragi-june/20070905

この記事によれば『岩波国語辞典』第五版が一九九四年にいち早く取り上げ、『広辞苑』が「立ち上げる」を初めて掲載したのは一九九八年の第五版だということらしい。元来がパソコン用語なのでパソコンの普及とともに一般的にも用いられるようになったと考えていいだろう。そう言う意味では、内堀さんも二〇〇六年の段階ではまだ「立ち上げる」には少し抵抗があったのかもしれない。しかし近年は抵抗なく使うようになっているようだ。

たしか阿川弘之の「立ち上げる」否定論をラジオで聞いたのも九〇年代後半ではなかったかという気がする。阿川の論理は「立ち」という自動詞立つの連用形と「上げる」という他動詞が合体するのはもってのほかである、というようなことだったと思う(正確ではないです)。たしかにその通りだと小生も合点して以来(それ以前も使ったことはなかったけれども)「立ち上げる」は使わないようにしているし、文字校正を頼まれたりしたときにも否定的な意見を添えるようにしている。

「コンピューターのシステムを稼働できる状態にする」を英語では「boot up」と言うそうだ。ブートはブーツの単数形で「深靴」の意味である。そこから「けっとばす」という動詞ができ、起動するに広がったということでいいのだろう。フランス語では「amorcer」と言うらしい。「1.釣餌をつける、まき餌をする/2.開始する」。フランスには外国語を使わないという法律があるためコンピューター用語も多くはフランス語に言い換えている。だいたいコンピューターと言わずにオルディナトゥール(計算機)と呼ぶのが驚きだ。ところが e-mail (発音は「イメル」)はそのまま使うことが多く、なんとか「クリエル courriel」を普及させようとしているらしいが、ネット上で見る限りではかんばしくないように思う。さてどうなるものやら。

立ち上がるだけでなく立ち(たち)のつく動詞はかなりある。文字通り自動詞「立つ」の連用形「立ち」プラス自動詞「……」が圧倒的に多い。立ち去る、立ち直る、立ち替わる、立ち止まる、立ちすくむ等等。あるいは強意の接頭語「たち」(たちいる、たちまさる)もある。とにかく、立ち去らす、立ち直す、立ち替える、立ち止める等とは言わないのである(あまり聞いたことがないような気がするが、絶対言わないとは言えないかもしれない)。

では「立ち上げる」に有利な過去の用例はないのかと古語辞典を見ていると、ひとつだけ「立ち隠る」に対する「立ち隠す」という他動詞があった。用例は古今集・春上の一首。

  山桜わが見に来れば春霞峰にもをにも立ち隠しつつ

何事にも例外というのはあるものなのだ。
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by sumus_co | 2013-09-15 21:00 | 古書日録

有井泰ふたたび

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昨日ふと『愛よ波を越えよ』(海上の友編集部編、日本海事公報協会、一九八二年四月一〇日二十版)の表紙が目に留まった。装幀者を確認すると「有井泰」だ。久し振りにこの名前を見つけて、おお、と思った。岡本芳雄といい、有井泰といい、長らく御無沙汰していたのに突然立ち現れてくる。これが古本のエキサイティングなところ。

串田孫一『表現の悦び』(ミリオン・ブックス、一九五六年)
http://sumus.exblog.jp/6220435/

この記事を書いたのは二〇〇六年だから七年振りの有井泰である。本書は二十版なので一九八二年発行になっているが、初版は昭和三十一年(一九五六)だから有井泰であってもおかしくはない。もちろん有井泰すなわち串田孫一なら一九八二年でも問題はない(二〇〇五年、九十歳で歿)。



久し振りと言えば、右文書院の青柳さんより新刊を頂戴した。右文書院は文学を忘れたのかと思っていたが、そうではなかった。しかもそのタイトルは、渡辺喜一郎『石川淳傅説』。これは嬉しい。石川淳といえば和漢洋へだてなき読書家だった。小説にはあまり感心しないが『諸国畸人傳』は一種独特な作風で愛読したものだ。書評家としても優れている。どんな生涯だったか、読むのが楽しみ。読了したら紹介します。
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by sumus_co | 2013-09-14 21:13 | 古書日録

美術と図画 小学生全集

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中川紀元『小学生全集第四十一巻 美術と図画』(文藝春秋社、一九二九年四月二〇日、装幀=東郷青児)。

小学生全集が五十冊ほど均一に出ていた。状態は善くもなく悪くもない。これは全部買ってもいいと思ったが、それは止めておいた。そこで表紙の気に入ったものだけ、何冊か抜き出した。そのなかの一冊が本書である。戦前の東郷青児はやはり非凡なものをもっている。

小学生向けに美術とは何か、および美術の歴史を説明した内容である。著者はまずこう断っている。

《私自身絵を描く人間で、年中絵を描き、絵の事を考へ、他の人の描いた絵を見ることを仕事にしてゐるのですが、さて美術のことがどれ程わかつてゐるかと自分にきいて見ると、何一つわかつたことはないやうな気がするのです。》

正直な感想である。小生も日々そういうふうに感じている。

《結局自然なり美術なりの美しさを感ずる頭脳は各々の人が持つて生まれて居るもので、その感じ方にもいろいろあり又鋭いと鈍いとのちがひがありますが、その人の教養の程度と心がけとによつてそれの発達に差別が出来てくることになるて居ます。》

この部分には賛同できない。一般にこういうふうに思われがちだし、こうしておけば「美しさ」をある種の普遍的なものとして捉えることができる。しかしながら「美」は制度なのである。あるグループには共通しているが、別のグループには通じない。普遍の美なんてものは存在しない。だから如何ようにでも作り出せる。猿にはおそらく猿なりの美の観念があるに違いない。少なくともボノボくらいになれば絶対もっているはずだ。われわれにそれが理解できるかどうか、美が制度だとすれば理解できるはずなのだけれど。

今日は二三の古本屋を巡った。別に報告したようにアスタルテ書房は閉まっていた。心配でならない。それ以外の書店では案外な収穫があった。ひとつは岡本芳雄の戦争小説『山襞』(洸林書店、一九四四年三月三〇日)を見つけたこと。細川書店の岡本芳雄である。

細川叢書
http://sumus.exblog.jp/19744833/

岡本には戦争小説が二作あるはずで、もう一冊は『冬陽』(肇書房、一九四四年)。ところが念のために曾根博義『岡本芳雄』(EDI、一九九七年)を確認してみると『山襞』は昭和十八年発行となっている。そこでもう一度、今日買った『山襞』の奥付をよく見直した。たしかに《初版昭和十八年七月二十日》としてあるが、発行は昭和十九年三月三十日、五〇〇〇部なのである。再版とも何とも書かれていないけれども再版であることは間違いないようだ。初版は二一〇〇部。予想以上によく読まれたということだろうか。ただし現時点では日本の古本屋にもその姿はない。伊藤整が日記に「面白い」と書いているようなので、ちょっと読んでみようかと思っている。導入部は悪くない。

もう一冊は呉茂一『ラテン文法概要』(鐵塔書院、一九三三年四月一五日)。ラテン語を習おうというわけではなく、小林勇の鐵塔書院の出版物だから興味を引いた。鐵塔書院はそれなりに出版物の数は多いのだが、部数が少なかったためだろうか、めったに見ないように思う。注意し始めて十年ほどにはなるだろうが、三冊か四冊買い求めただけである(むろん高額なものはスルー)。そういえば、雑誌『鉄塔』全冊のCD-R版も持っていた……何とか紹介しないと。
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by sumus_co | 2013-09-13 20:48 | 古書日録

会田綱雄と吉岡実

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洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮文庫、一九九六年)を読み直していると、会田綱雄の名前が出ていて、ハッとしたが、よく考えてみると、このくだりはすでに過去のブログで引用したことがあった。会田の手紙を求めたのは覚えていたが、それについてこんな記事を書いたことはすっかり消えてしまっていた。

会田綱雄
http://sumus.exblog.jp/16497150/

『特装版現代詩読本・吉岡実』(思潮社、一九九一年)のアルバムから、洲之内徹のエッセイにも連名で登場する西脇、吉岡、会田(右から)が並んでカメラに収まった図を引用しておく。一九七〇年だから、エッセイより四年ほど前のことになるようだ。

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昨日、以前紹介した雑誌『ゴタ派』についてメールを頂戴した。

ゴタ派
http://sumus.exblog.jp/16571303/

いわく《「ゴタ派」の「編集兼/発行人」である「盛川 宏」は私の父親になります。》。九月九日は父上の御命日だったとか。時折こういうメールを頂戴するのが、ある意味この古本ブログのささやかな存在意義のような気がして悪い気持ちはしなかった。

『ゴタ派』に掲載されている父上の小説を読みたいとご子息はおっしゃる。それでは探し出さなければならない。たしか、詩集に関連した棚に差しておいたはずだが……と探し始めた。いくら探しても見つからない。他の戸棚や段ボール箱のなかも調べたが、どうしても見つからない。

そんなことで詩書を次々に抜き出していたら小田久郎『戦後詩壇私史』(新潮社、一九九五年)が現れた。目的はこの本じゃないのだから開かなくてもいいのにうっかり開いてみたところ「吉岡実と会田綱雄」という見出しが目に飛び込んで来た。

《吉岡実とは、「現代詩手帖」に詩をもらってからの長いつきあいだった。吉岡が勤めていた筑摩書房が、目と鼻の先にあったので、昼となく夜となく、昭森社ビルの向かいの「ラドリオ」とか、筑摩書房の近くの喫茶店とかで会った。》

《装幀の面でいうと、ぜったいに譲らない美学をもっていて、杉浦康平が精緻な頭脳で作った『吉岡実詩集』の本文レイアウトを反故にしてしまい、自己の編み出した二十六字詰めの字詰を押し通してしまったこともある。そこに、無駄のない文字とカットで、緊張したバランスをつくりあげる吉岡装幀美学の原点を見る思いがした。》

《吉岡実と同じ筑摩書房の禄をはんでいた会田綱雄については、こんなトラブルがあった。
 一九七四年の二月か三月ごろ、「歴程セミナー」かなにかの帰り、草野心平がやっていたバー「学校」へいったことがある。セミナーの校長をしていたので、なんとなく十名くらいのメンバーが、及川均をかこむかたちになった。及川の隣りの席には、集英社時代に及川に面倒を見てもらった三浦雅士が座り、その隣りか隣りに、会田綱雄がむっつりと座っていた。一座の話題は「現代詩文庫」にかたむきがちだった。》

そこで現代詩文庫の判型や二段組みの善し悪しについて論議になった。

《そんな話をしていたとき、それまではだまって盃を傾けていた会田が、突如、途方もない大きな声でどなったのである。
「ーーだまれ! なにが現代詩文庫だ!」
 座はいっぺんにしんとなった。会田がなにをいおうとしているのか、とっさに私には見当がつかなかった。三浦がすばやく会田の隣りに座りなおして、会田をなだめつつ座をとりなした。気まずい雰囲気のまま、自然に座談の輪は崩れ、三々五々に散っていった。
 数日後、私は会田に電話をかけた。
「ーー現代詩文庫に、会田さんの巻を作らせてもらえませんか」
 会田は絶句し、二、三分黙ったままだった。殺気のようなものが薄れ、やがてしゃがれた低い声が伝わってきた。
「わかった。よろしくたのむーー」》

吉岡が杉浦のレイアウトを拒絶した! これもむろん以前読んでいたはずだが、すっかり忘れていたので新鮮な衝撃だった。やはりアーティストたるものこうでなくてはいけない。対して会田についてのエピソードはやや子供じみた感じがしなくもないが、正直な人間だったという証でもあろう。

結局『ゴタ派』は見つからなかった。処分するはずはないのでおそらく郷里へ移動させたのだろう。ならば、少し時間が必要だ。その旨メールを返したところ、日本近代文学館に所蔵されていると知人に教えられたと返事があった。すぐに検索してみるとたしかに同じ第一号が見つかった(おそらく第一号だけの発行だったのではないかとご子息は推測しておられる)。これならば郵送でもコピーを請求できる。日本近代文学館、やるじゃないか。
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by sumus_co | 2013-09-10 21:07 | 古書日録

重訂詩韻含英

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『重訂詩韻含英』(鴻文堂)を某氏より借覧している。『詩韻含英』というのは漢詩文をつくるときに用いる字書。平仄(ひょうそく)を合わせるために参照するもの。あるいは、この字書には文字ごとに二文字と三文字になった用語例が出ているので、というのは漢詩は二文字と三文字の組み合わせで作らなければならないからなのだが、その用例を拾って組み合わせるということも可能な、きわめて実用的な字書(正しくは韵府といい、古今韵府、韵府群玉、佩文韵府など多数あるが、ことに佩文韵府は康煕五十年に成立した百六巻の決定版)である。

ちょっと検索してみると『詩韻含英』というタイトルの書物が意外と見つからない。名古屋大学附属図書館に劉文蔚輯『詩韻含英』十八巻(書業堂, 乾隆23 [1758] 序、タイトル別名=重訂詩韻含英)があっただけ。おそらく本書の元本であろうか。本書は体裁からして明治時代初期に刊行されたもののように思われるし、鴻文堂も明治になってからの版元のようである(確実ではないが)。

『詩韻含英』はそれだけだが『詩韻含英異同弁』は多数ヒットする。日本の古本屋でも現在二十八件、すべて異同弁。どこがどう違うか、まずこれが本書。

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そして『詩韻含英異同弁』はこちら。上段にテキストの「異同」が註の形で書き込まれている。むろん異同が分かったほうがいいに決まっているから、そういう版本の方が多いのであろうと思う。

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《かゝる韵府の中には支那の凡有る漢文字が全部、平(ひやう)、上(じやう)、去(きよ)、入(にふ)の四声に区別され、平声(ひやうせい)の韵(ゐん)、上声の韵と云ふやうに皆な門を分ち、同類の文字を韵部の下に繋いであるから、是れを一覧せば明白に分かる。此の韵府の力を借らずに、平仄を知らんとしても六ツケ敷い事である。此の韵本に因つて、如何なる韵の中に、如何なる文字が収められてゐるかゞ明瞭になれば、平仄は容易に知る事が出来るわけである。》

細貝泉吉『漢詩絶句作法と鑑賞』(立命館出版部、一九三四年一二月二九日)からの引用である。具体的にどういうふうに作るかは、また改めて勉強してみたいと思うが、とにかく漢詩という漢字パズルは音によってルールが決められているということだ。元々は歌うための歌詞だった。

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巻首に印章がいくつも捺されている。蔵書印であろう。最近、篆刻から遠ざかっているので、読み方があやふやだが、上段の二つは右から

 芳天不蔵心自閑
 雕性堂

タイトルの下の二つは

 琴如氏
 子禎人

ではないかと思う(乞御教示)。ググってみてもとくに関連のありそうな事柄は出て来なかった。
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by sumus_co | 2013-09-08 20:55 | 古書日録