ANA国内線【PR】

林蘊蓄斎の文画な日々
by sumus_co
カテゴリ
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
京都のお茶漬け
東京アレコレ日記
佐野繁次郎資料
宇崎純一資料
渡邊一夫の本
青山二郎の本
spin news
読む人
パリ古本日記
写真日乗
あちこち古本ツアー
装幀=林哲夫
著述関連
画家・林哲夫
雲遅空想美術館
淀野隆三関連
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
貧乏こっとう
以前の記事
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
more...
お気に入りブログ
最新のコメント
早々のご回答ありがとうご..
by 姫だるま at 08:31
値段はお店によってまちま..
by sumus_co at 21:21
今日、天三おかげ館に1号..
by M at 21:10
青山二郎には装幀の図案と..
by sumus_co at 13:33
おはようございます。 昨..
by よし at 08:36
記載しております住所へ直..
by sumus_co at 14:16
私は現在、松村久子さんの..
by 姫だるま at 09:33
市場に流れれば手に入る可..
by sumus_co at 21:19
会場でお会いしましょう。..
by sumus_co at 21:17
まあ、雑誌や資料類などは..
by 広島桜 at 19:17
メモ帳
お問い合わせはこちらまで

本を散歩する雑誌 [スムース]
洲之内徹略年譜
『書肆アクセスの本』
海文堂書店
恵文社一乗寺店
Calo Bookshop & Cafe
貸本喫茶ちょうちょぼっこ
BOOKONN
奥付検印紙日録
とらんぷ堂
書肆砂の書
みずのわ編集室
みずのわ放送局
エエジャナイカ
蟲文庫
古書日月堂
海月書林
田中栞日記
古書の森日記
日用帳
なえ日記
lady pippon
古書現世店番日記
海ねこ的日々の暮し
m.r.factory
ナンダロウアヤシゲな日々
内澤旬子・空礫絵日記
四谷書房日録
森茉莉街道をゆく
ねこそぎ記念
本の街日記
リコシェ
旅猫雑貨店
津田明人
マン・レイと余白で
北方人日記
柳居子徒然
駅前糸脈
日々のあわ.。o○
晩鮭亭日常
空想書店書肆紅屋
bibliomaine mod
autographes et …
BiblioMab
Le blog de Yv
Le Monde
Gibert Joseph
bnf
BRITISH LIBRARY
Galaxidion
Library of Congress
Strand Bookstore
The Book Design Review
penguin blog
Mark Simonson Studio
modernmechanix
くうざん本を見る
神保町系オタオタ日記
ma-tango
jun-jun1965
書物蔵
スローラーナー
本はねころんで
漁書日誌
城戸朱理
町家古本はんのき
古書ダンデライオン
Kanecoの日記
吉岡実の詩の世界
qfwfqの水に流して
古本屋ツアー
清水哲男
Automat svět
細馬宏通
中野晴行
古通・編集長日誌
昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板
本と暮らす
ウロボロスの回転
表現急行
tundowの日記
盛林堂日記
フクヘン
花森安治の装釘世界
文壇高円寺
ぶろぐ・とふん
okatakeの日記
古本ソムリエの日記
最新のトラックバック
京都印刷発祥之地 記念碑建立
from 印刷見聞録|からふね屋|京都
本を散歩する雑誌 [スム..
from 相互に旅をする人
土曜日のブックオフ
from 古本万歩計
[書評][詩歌に寄せるエ..
from 読書百篇
第33回西荻ブックマーク
from 西荻ブックマーク
北野武似の少年は夏休み、..
from 月の風ノート
【ライト兄弟】についてブ..
from 最新キーワードチェック!
『田辺茂一と新宿文化の担..
from じんぶんや「紀伊國屋書店と新宿」
美の名言
from 美の名言
横尾忠則の小説
from Mの日記@古本T「たまにはス..
ライフログ
検索
ファン
XML | ATOM

skin by excite


カテゴリ:古書日録
  • 本の手帖31〜40
    [ 2012-05-26 21:29 ]
  • 季刊本の手帖21〜30
    [ 2012-05-25 20:09 ]
  • 季刊本の手帖11〜20
    [ 2012-05-24 19:51 ]
  • 季刊本の手帖1〜10
    [ 2012-05-23 21:33 ]
  • 杉山平一さん死去
    [ 2012-05-20 20:33 ]
  • 古本屋奇人伝
    [ 2012-05-19 19:50 ]
  • マッシモ・リストリの図書館
    [ 2012-05-18 22:16 ]
  • 同人誌雑評と『銅鑼』些文
    [ 2012-05-16 22:30 ]
  • 星の女
    [ 2012-05-10 21:46 ]
  • ディドロのクラヴサン
    [ 2012-05-09 21:35 ]
本の手帖31〜40




「書坊余録」という奥付頁にある短文欄で近藤東が「一冊の詩集」と題して荘原照子『マルスの薔薇』を紹介している。荘原照子は本ブログで紹介している手皮小四郎さんの連載に詳しいのだが、この記事は荘原照子の消息が不明だったところから本人を見つけるまでに十年かかったという内容である。

中込純次「パリの或る日」。ノートルダム寺院のファッサード《左側の聖者たちの中に、首を手にぶらさげている首無し聖者が居る。それが聖ドニである。切られた首を手に持ったまま、三百メートルも歩き、モンマルトルの岡の上で倒れた。それからあの岡が殉教者の岡「モンマルトル」と呼ばれるようになった…》という観光案内の解説を書き留めているが、正確にはモンマルトルの丘の上で斬首され、歩いて今日サン・ドニ教会堂がある場所まで自分の首を提げて歩いた、という伝説である。これとは別に「Mons Martis (le mont de Mars)」に由来するという説もあり、それによればガロ=ロメーヌ時代(紀元前一世紀〜後五世紀)にマルス(メルキュール)に捧げられた丘だったからだという。

サン・ルイ島に渡る。《一九三〇年頃、日本美術コレクターとして早くから日本人に知られていたユルリック・オダンが、この島のベチューヌ河岸に住んでいた。僕はその岸にたたずみ、彼の住んでいた五階のバルコンを見上げ、往時を偲んだ。この家のサロンで僕も、他の留学生たちと一緒にお茶の接待を受けたものだ。オダンはその後東京の荻窪に妻とめと移り住んで、日本の土と化した人だ。この岸から見える彼の部屋に、昔かけてあった栖鳳の「烏賊」の図が眼に浮かんでくる。》近くのアンジュ河岸にボードレールが住んでいたピモダン館がある。《オダンもこの詩人を好きだったらしく、「悪の華」の中の「おお、主よ、わが心と肉体を嫌悪なしに挑むる力を我に与え給え!」という意味の詩句を、よく口ずさんでいたことを思い出した。》

カルチェ・ラタンでは《学校の裏手のデカルト街に出て、ヴェルレーヌの最後の家の前に出た。階下はヴェルレーヌ書房という看板が出ていて、飾窓に本が並べられてある。パンテオン前の横丁のスフロー街から、下り坂になっているトリエ街に出て、往年永井荷風が泊まったというホテルの前に立つ。》ここで「学校」というのはソルボンヌのことのように書かれているが、アンリ四世校だろう。その裏のデカルト通りにヴェルレーヌの家があり、その家の左側にヴェルレーヌ書房があった(というのが蜷川譲『パリ文学地図』の説明)。この書店は現存はしないと思う。この通りは何度か通ったが記憶にない。それからボードレールの墓というキャプションのある写真が掲載されているが、どうもボードレールの墓ではないようだ。少なくとも小生が訪れた詩人の墓ではない。





山崎義彦「リルケの秘密」。クレール・ゴルの回想録『私は誰も赦さない。現代の言語道断な文学的年代記』の紹介。クレールは詩人イヴァン・ゴル(堀口大学訳『馬来乙女の歌へる』版画荘、一九三七年、で知られる)の妻。ゴルと結婚する前からリルケのファンだったクレールは一九一八年、第一次世界大戦終結直後、スイスからミュンヘンへやってきた。《ミュンヒェン到着の翌十一月十八日、アインミラー街34番地アパート五階の詩人の住宅へと通ずる階段を登るに先立って、そのアパートの中二階のパウル・クレーの所へ立ち寄ってクレー夫人心尽くしの軽い食事で気息を整えねばならなかった。リルケは女たらしだとの評判を聞かされて、さしものボルシェビキの闘士もぶるぶる震えた、と件の回想録は告げている。》だが会ってみるとすっかり詩人と意気投合したクレールは詩人の子供をみごもった。リルケとゴルが長い手紙のやり取りを重ね、結局は堕胎することになったという。うかつながらクレーとリルケが同じアパートに住んでいたとは知らなかった。







四十号で終刊のようだが、終刊するとはどこにも書かれていない。

by sumus_co | 2012-05-26 21:29 | 古書日録 | Trackback | Comments(0)
季刊本の手帖21〜30


前田愛「東ベルリンの「舞姫」」。ジャルパックで前田が東ドイツを一週間で駆け抜けた。森鴎外『舞姫』の舞台である東ベルリンの街並みを自分の眼で確かめるというのが目的の一つだった。まずウンテル・デン・リンデンの有名な並木通りへ。《冷やかな物憂さが立ちこめている、人通りもまばらなウンテル・デン・リンデンの大通りをブランデンブルク門へと近づくにしたがって、リンデンの若芽の香りがかすかに感じられてきた。その香りだけが、何か気恥しい想いをかりたてられるほどに、なやましい精気を発散させているのだ。》……とここを読んで先頃亡くなったディートリヒ・フッシャーディスカウの「菩提樹」を思い起こした。あの名唱はやはり忘れがたい。

次に鴎外が最初に下宿したマリエン通りを訪ねる。森鴎外旧居である旨の碑板がはめ込まれているが、その記述が間違っていることについて(検索すると現在では森鴎外記念館がブランデンブルグ門の近くの Hermann Matern 通りにあるそうだ)。つづいてアレキサンダー広場へ。《鴎外が下宿していたはずのクロステル街九十七番地は、テレビ塔の真下、下駄ばきアパートのあたりという見当がついた。『舞姫』の太田豊太郎がエリスと出会う古寺のモデルに擬されているマリエン教会は、完全に復原されてはいるものの、まわりの近代的な建築とは、何ともちぐはぐな景観をつくりだしている。赤裸に剥がれた中世がさらしものになっているといった風情であった。》

《明治二十一年の厳冬を迎えた太田豊太郎が、四階のエリスの家から見おろしていた街路は、こうした凸凹の舗道であったにちがいない。「クロステル街のあたりは凸凹坎坷[とつおうかんか]の処は見ゆめれど」とある条りである。黄昏どきの影がたれこめているこの陰うつな路地に足を踏みいれたとき、私はごく自然に『舞姫』の世界へと通ずるタイムトンネルの入り口に立っているような想いにとらえられた。エリスと太田豊太郎の暮らしは、たぶんおたがいが身をすりよせずにはいられない、侘しさをただよわせていたのだとおもう。》

富士正晴「書庫」。まずは司馬遼太郎が書庫を中心にして新居を建てたはずなのに書庫よりも住居の方面に力が入っていて使い勝手が悪いと不満をもらした話。そして『VIKING』の津本陽は和歌山で建て売り業をやっていたが、津本が《富士さん、土地を都合しなさい、そしたら、家はただでわたしが建てて上げますと、びっくりするような申し入れを本気でした》話。しかし富士は断る。《ぼろの家でもいいから、本の背中が読める位の広い家が買えたらその方がええんやとわたしはいったが、もし、そんな家が買えても、沢山の本を動かせて家移りすることを思うと、わたしは想像するだけでくたびれる。》、津本は空いている庭を利用すれば建たないこともないとさらに提案するのだが《うちの伸子(次女)が花を咲かしてよろこんでいるのでなあ》という理由をつけてウンと言わない。津本はあきれて帰ってしまった。

《桑原武夫の家にも新しい書斎がある。もっとも、書斎のベッドの上まで、本が乱れ積みされているはいるが。ベッドの上の乱れ積みの方がまだしもで、わが家はもう十年もしたら、本の中に小さくなって飯を食い、眠りということになるかも知れぬという気がしているが、十年も生きてたまるかという気がしていないでもない。》

この二十二号には井上究一郎「エトナを見る」というややセンチメンタルなエッセイも収められている。

寺崎浩「小田嶽夫のこと」。《私たちは世界大戦の時、徴用されて大阪城へ集合を命じられた。私は井伏鱒二、小田君らと大阪へ行った。私は井伏、海音寺らと共にマレー派遣組であり、小田君は高見順らと一緒のビルマ派遣組であった。この二組は兵舎も同じであったし、乗せられた船も同じアフリカ丸であった。
 そしてサイゴンで小田君たちと別れた。
 一年経って、私たちは東京へ帰るためシンガポールへ集結させられた。ジャワへ行った組、ビルマ、マレー組、ヒリピン組が一つに集められた。その中でビルマ組が一番貧弱な防暑服姿であった。私はすぐ小田君を迎えて呑んだ。小田君たちは物資が手に入らなくて困った、と語った。ジャワ組が一番立派な身なりだった。》

竹之内静雄「杜詩一句山水一幅 三好達治の死」。君山狩野直喜の揮毫した「九日藍田崔氏荘」の杜詩の解釈をめぐって三好達治の詩人的なこだわりを描く。《「一人だけ好きな詩人をあげよと、言われれば、日本では萩原朔太郎。/中国では、蘇東坡」》という言葉は竹之内に強い印象を与えた。











by sumus_co | 2012-05-25 20:09 | 古書日録 | Trackback | Comments(2)
季刊本の手帖11〜20


黒田三郎「碁を打つ」。《しかし、僕の頭のなかでは、どうにも詩人飯島耕一と碁とは結びつかなかった。受話器の横のメモがピンと来なかった所以である。三好豊一郎ならわかる。三好豊一郎ならざる碁の雄である。ヒルトップ・ホテルの一室で、加島祥造とざる碁をかこみ、「豊ちゃんは、人格高潔なのに、碁となるとどうしてこう、ひとものをとろうとするんだろうね」とひやかされながら、それでも必死に加島の石をとろうとしている姿が鮮かに僕の脳裏にある。本来なら、僕に三目は置かねばならぬ腕前なのに、自分で勝手に「もう二目でいいだろう」「もう対でいいだろう」と言って、自分の腕をせりあげるのである。》











小海永二「物故詩人たち」。まず一人は菱山修三のこと。《たとえば菱山修三さんなどはもう亡くなられて九年になるが、享年五十八歳で、同世代の詩人たちの中では早い死だった。わたしはその亡くなる三、四年前から、高等学校の国語の教科書の編集の仕事をいっしょにして、月に何度か、かなり繁くお会いしており》《晩年の菱山さんは詩壇的には不遇と言ってよく、わたしなどにどこか詩集を出してくれるところはないかと相談されたりした。その折、昭森社の森谷均さんに(森谷さんも今は故人だが)話をしたことがあるのだが、出版費用を何がしか本人に出してほしいということで、わたしがその旨を伝えると、菱山さんは残念そうにそんな金はありませんよとつぶやくように答えられた。》《教科書にどんな詩を載せるかという具体的な問題ではそう強く自説を主張されることはなかったが、話があれこれの詩人に及ぶと、それが特に同世代の詩人である場合、歯に絹[ママ]着せぬ口調で、卒[ママ]直な批評の言葉を口にした。草野心平さんや三好達治さんらの、いわば人気のある成功者の詩人たちに対して、とりわけその口調はきびしかった。》

この後、菱山の詩集は商業出版の形で別の出版社から出たとある。NDL-OPACで調べると詩集としては『恐怖の時代』(弥生書房、一九六二年)、『幼年時代』(牧羊社、一九六四年)が出ているようだ。

金子光晴も登場する。《金子光晴さんとは生前一度だけ会った。それもNHKのスタジオで、金子さんの詩をテレビで放送する時、ゲストとしてお招きしたのだが、わたしが横浜の大学に勤めていることを知ると、川崎のストリップと横浜のストリップとの比較を話され、もちろんそれは放送されはしなかったが、まずそれが最初の話題というわけだった。》





by sumus_co | 2012-05-24 19:51 | 古書日録 | Trackback | Comments(0)
季刊本の手帖1〜10

『季刊本の手帖』(昭森社、一九七二年〜一九八七年)。創刊号の編集後記に大村達子がこう書いている。

《前社主森谷均が亡くなりまして早や三年の歳月が流れました。その間雑誌を何らかの形で刊行したいと考えてまいりましたが、このたびその夢を季刊「本の手帖」として、十六頁の小誌に実現させる運びとなりましたことを筆者並びに読者の方方に深くお礼申し上げます。
 八十三号までつづきました月刊「本の手帖」の印象があまりに強く私の胸にあり、新しい雑誌を出すことになかなか踏みきれず、消極的でしたが、ささやかな紙数の中に珠玉のようなものをちりばめられたらと思い、先ず季刊の形をとり、そして昭森社の伝統を生かしたものをと考え創刊にいたりました。》

昭森社の住所は東京都千代田区神田神保町一丁目三番地。ここに紹介するものは小生架蔵のものではなく某氏に借覧したのだが、《神保町の木造家屋の急な階段を上った昭森社で買ったことを思い出します》ということである。一枚の大きな紙(既成の判には該当しない)に印刷し、それを折り畳んでA4とB5の中間くらいのサイズで十六頁にしてある。以下個人的に気になった文章を少しだけ紹介しつつ表紙(目次)を並べておく。まずは十号まで。





一羽昌子「アルベルチーヌ・サラザンのこと」が面白かった。アルベルチーヌ・サラザン(Albertine Sarrazin)は一九五三年にマルセーユで話題になった美少女強盗。脱獄の途中でジュリアン・サラザン、彼もまた泥棒の常習者だった、と出会い、獄中で結婚。夫妻は入れ違いに入獄と釈放を繰り返した。『くるぶしの骨 L'ASTRAGALE』(一九六五)、『脱走 LA CAVALE 』(一九六五)、『アンヌの逃走 LA TRAVERSIÈRE 』(一九六六)という彼女自身の体験をアルゴ(俗語)で描いた小説三作を残して一九六七年七月一〇日に三十歳余で歿した。モンペリエの病院で腎臓摘出など何度も外科手術を行い、結局心臓発作で亡くなったようだ。邦訳は『アンヌの逃走』(野口雄司訳、早川書房、一九八七年)だけだろうか?

アルベルチーヌ・サラザン オフィシャルサイト
http://albertine-julien.fr/



齋藤磯雄「三餘雜稿抄」は辰野隆への追悼文。《辰野隆博士二月二十八日逝去。三月一日初めて先生が邸宅に参じ霊前焼香。三月五日葬儀青山斎場、この日雲低くして寒雨霏霏たり》。昭和三十七年の麻布龍土軒での日夏耿之介詩碑委員会のときに辰野が齋藤にもらした《岩波文庫版悪の華を痛罵して已まず、貴訳ありてのちあのやうなものを公にする気が知れず》という言葉はなかなかシビア。むろん鈴木信太郎訳のことである。





大井正「テュービンゲン市の古本屋」はヘルマン・ヘッセが働いていた古本屋ヘッケンハウアー書店について。《十八歳のときに、かれは、シュトットガルトの南二〇キロにある、ここテュービンゲンに来て、この本屋でようやく常軌の生活についた》そして「ロマン的な歌」「真夜中後の一時間」「ヘルマン・ラウシャー」「プレッセルの四阿にて」などの詩や小説を書いたということである。



以下つづく。
by sumus_co | 2012-05-23 21:33 | 古書日録 | Trackback | Comments(0)
杉山平一さん死去

杉山平一さんが亡くなられたという報道があった。九十七歳。心よりご冥福をお祈りしたい。この写真は杉山平一『戦後関西詩壇回想』(思潮社、二〇〇三年)の口絵。左から杉山平一、竹中郁、小野十三郎、安西冬衛、井上靖。毎日新聞社屋上で撮影されたようだ。年月は不明ながら本文中に

《竹中郁の詩集『動物磁気』(一九四七)が出て、その出版記念会をしたのが、その年の七月だったが、小説を書き出したのに合わせる様に井上靖は東京へ転勤になった。その十一月十日に、竹中さんの肝入りで、松竹座の地下の食堂で送別会を催した。十人位のあつまりだったが、みんなで色紙に寄せ書きをした。私はたしか「告別の傷みに破るる勿れ」という朔太郎の詩句を書いたおぼえがある。みんな東京へ行ってしまうなあという淋しさであった。》

とある。井上靖は大阪毎日新聞社の記者だった。とすれば昭和二十二年の十一月十日の撮影か? 同社は当時、現在の堂島アバンザ(大阪市北区堂島1丁目6番20号)に社屋があった。だから後ろに見えているのは大阪駅だろう。陽はかなり傾いているようなので送別会の前に社に集まった仲間たちが屋上で記念撮影したのではないだろうか。杉山さんは三十三歳だった。

手持ちの絵葉書から大阪毎日新聞社の絵葉書を二枚紹介する。

《大阪毎日新聞は其起源を大阪市に於ける最初の大新聞たる大阪日報に発し明治十年以前の創立にて、明治十四年立憲政党新聞と称してより号を算し明治二十一年更に大阪毎日新聞と改称したるものなり》

明治二十二年に渡辺台水、本山彦一、高木喜一郎らが大阪の実業家の出資を募って会社組織に改め、明治三十年に原敬を社長に迎えた。原は第一次西園寺内閣に入閣のため小松原英太郎に交替、小松原も桂内閣の文部大臣になった。後を襲って本山彦一が社長となり紙面改革に当たった。大正四年より紙面を十二頁とし内四頁を夕刊とした。大正八年に株式会社となる。

《大正十四年春に到り発行紙数実に百二十有余万を算し号数茲に一万五千号に達す此際大に世運の進歩に貢献すべく四月一日を期し二頁を増し日刊十四頁とし内四頁の夕刊を発行し又記念として大大阪記念大博覧会を主催するところあり本社は又三十九年十二月より東京に於て毎日電報を発行し次で四十四年二月東京日日新聞日報社を買収し毎日電報を是に合併し東京日日新聞の名を以て之を発行したるが次を逐ひて隆盛に赴き関東に在りて殆ど比肩するもの無く偶々大正十二年九月大震災の厄を免れてより声望頓に倍加し名声関東に冠たり》

大大阪記念博覧会については以前紹介した。

毎日新聞の訃報:杉山平一さん97歳=最長老格の詩人
http://mainichi.jp/select/news/20120520k0000m060036000c.html

by sumus_co | 2012-05-20 20:33 | 古書日録 | Trackback | Comments(4)
古本屋奇人伝

青木正美『古本屋奇人伝』(東京堂出版、一九九三年)読了。なぜかこれまで読んでいなかった。『ある「詩人古本屋」伝 風雲児ドン・ザッキーを探せ』(筑摩書房、二〇一一年)、『ある古本屋の生涯 谷中・鶉屋書店とわたし』(日本古書通信社、二〇〇六年)、『古書肆・弘文荘訪問記―反町茂雄の晩年』(日本古書通信社、二〇〇五年)と古本界の伝説的人物の評伝を次々と手がけておられる青木氏。その古本屋伝としては最初の一冊と言っていいようだ。

「明治堂書店主・三橋猛雄」が力作。

《……ある同業者から「もっと善本を扱いなさい、エネルギーの浪費だ」と忠告された。「金額物を扱わなければ損ですよ」とも言われた。しかし私には業界でいわゆる一流品というものと、自分の扱っているいわゆる雑本とどこが違うのか判断できない。商品として一万円と百円の本は百倍の相違があるが、一万円の本より百円の本を喜こんでくれる客もいる。そういう客への奉仕によって自分の生活の資を得ている今日迄の生活を、私はいささかも悔いていない。》(「新春夜行列車」『古書月報』昭和23年1月号)

《ある同業者》とは三橋の究極のライバルであった反町茂雄だと青木氏は推測しておられる。

もう一人、反町をつねに目標としていた「蒐文洞主・尾上政太郎」(山口誓子のエッセイ集『宰相山町』に登場)もじつに面白く描けている。

《大阪の同業者から聞いた話だが、政太郎はその抜群の目利きから、本の掘り出しも名人だった。特に人から頼まれた本、これはあの人が欲しがるだろうという本は忘れなかった。それを求めるが早いが、政太郎はわずかの利づけで顧客に譲り、客の喜こぶ顔を見るのを本懐とした。寝せて高くなるまで待つとか、客の足元を見て高く売りつけることなどは全くない性格だった。その性格は、戦災で全てを失ってからますますきわ立ったようで、今や政太郎の執着は「古本屋日記」にしかなくなっていたのかもしれない。》

文中「古本屋日記」は政太郎が四九九冊まで書き続けたという貴重な古本記録。これを青木氏は高く評価しており、同業者を撮ったポラロイド写真を即座に日記帳に張り込む様子などを活写しておられる。本と美人と酒を愛した尾上政太郎が日記の最終頁に記したといわれる歌。

 どうせこの世は神さんまかせ
  おむかえくるまで生きてやる

関口良雄の評伝もよくまとまっているが、上記二人と比較するとやや淡白な感じがする。ただ上掲の写真にはぐっときた。(右側の関口良雄の笑顔、街の草の加納さんに似ていないかな?)



by sumus_co | 2012-05-19 19:50 | 古書日録 | Trackback | Comments(2)
マッシモ・リストリの図書館

イタリア文化会館で開催されている「マッシモ・リストリ写真展 奥行きへのまなざし」のチラシを頂戴した。チラシでは五日までだが、HPによれば明日十九日まで延長されたそうだ。見たかった。

《世界中の図書館、美術館など歴史的建造物の内部景観を写真家の審美眼で切りとった超大型作品を約40点展示します。 マッシモ・リストリ(Massimo Listri) 写真家マッシモ・リストリは世界中の歴史的建造物の内部空間を被写体とした作品を'80年代から発表し続けています。静謐で驚くほどにエレガントな空気感を感じられる彼の作品には西洋美術史家的な視点と建築家的な視点とで見いだされる緻密なパースペクティブが構成されています。これまでに60冊以上の写真集を発行し、各地の重要な美術館や公共施設で、数多くの展覧会が開催されています。リストリの作品が日本で展示されるのは初めてのことです。》

ということだが、昔なら、こういう建築物の内陣を描くのは画家の仕事だった。とくにオランダ十七世紀あたりには多いように思う。しかし、この写真の空間や陰影の美しさには惹き付けられる。


ということで思い出したのがこのフランス国立図書館のパンフレット『LA BIBLIOTHÈQUE NATIONALE』(Éditions Albert Morancé, 1924)。『sumus』8号の裏表紙にこの冊子から写真を使わせてもらった。




この冊子からフランスの王立図書館の創世について簡単に引用しておく。まずはそれまであまり王家は書籍蒐集に熱心ではなかったのだが、シャルル八世(Charles VIII)のときにイタリアのアラゴン王の写本コレクションを持ち帰り、またパリの書籍商アントワーヌ・ヴェラール(Antoine Vérard)の忠誠によって貴重な印刷本や装飾写本を相当数蒐集することができた。

ルイ十二世(Louis XII)が王位に就くやオルレアン公爵の素晴らしいコレクションを手に入れアンボワーズのブロワ城に収蔵した。ミラノを征服してヴィスコンティ家やスフォルツァ家によってパヴィアに集められていた書物を手に入れた。

フランソワ一世(François Ier)は祖父ジャン・ル・ボンや父シャルル・ダングレームのコレクションによって王家の図書館を豊かにした。王は古代語で書かれた写本を好み、それらをイタリア、ギリシャ、オリエントなどから求めた。コレクションはブロワ城からフォンテーヌブロー城へ移される。フランソワ一世はまた華麗な装幀(la reliure)を愛したため多数の書物が王家の紋章で飾られ装幀された。彼の統治時代にフランスで印刷されたすべての作品を国立図書館が所有するという「決定納本 dépot légal」が定められた。

アンリ二世(Henri II)も父と同じく装幀に趣味を持っていた。ディアーヌ・ド・ポワチエのために装幀されたものは国立図書館の収蔵する最も美しい書物である。それらはグロリエ(Jean Grolier)やマイオーリ(Maïoli)の達成した装幀芸術のレベルの高さを示している。

一五七〇年頃、図書館はフォンテーヌブローからパリへ移された。一五九五年、アンリ四世(Henri IV)がサンジャック通りのコレージュ・ド・クレルモンのなかにそれを置いた。そこは今日のルイ=ル=グラン高校である。

ルイ十四世(Louis XIV)は文学を庇護したため図書館の活動も活発になったが、十七世紀における蔵書の急増はとりわけ大臣であったコルベール(Colbert)の尽力によるものであった。コルベールが歿したときには印刷書籍および写本の数は当初の倍に増えていた。それだけでなくメダルと版画を含めた蒐集の四部門を確立したのもコルベールだった。

また、この時代の蒐集を考えるときにはピエールとジャックのデュピュイ(Dupuy)兄弟の存在を忘れることはできない……と読んでいてはきりがないので、このへんで。


by sumus_co | 2012-05-18 22:16 | 古書日録 | Trackback | Comments(0)
同人誌雑評と『銅鑼』些文

保昌正夫『同人誌雑評と『銅鑼』些文』(港の人、二〇〇一年一月二〇日、装幀者=吉冨浩)を頂戴した。これは架蔵していないと思うので有り難く拝読。『図書新聞』で一九九七年から二〇〇〇年までの三年間連載された「同人雑誌評」をまとめた前半と、先日紹介した『銅鑼』に書かれた短文を集めた後半から成っている。

講義もそうだったが、独特の語り口が持ち味である。醒めたなかに熱いものを秘めている。小説の同人雑誌ばかりなのでほとんど聞いたこともないような名前がたくさん出てくるが(『文学雑誌』や『VIKING』くらいは知っているが)、それはかえって保昌先生の語り口を味わうのには適しているかもしれない。しかし、ときおり

《『田中英光研究』を続けてきた西村賢太氏も同人誌で書いてみたら、どうか。》

とか

《『イプリス』(第1号、大阪)で読んだ杉山平一のエッセイ「文学者の帰郷」は藤沢桓夫や長沖一の大阪帰りから「転向」のことにも触れて心打つ一文であった。エッセイも甘口よりは辛口がよい。》

あるいは

《『黄色い潜水艦』(33号、奈良市)などは、その一つ。宇多滋樹「水道橋・飯田橋」は「二十歳過ぎのころ」の「私」をふりかえって、共同印刷で輪転機に振り回され、町工場で製本作業にくたくたになる日々を描く。とにかく「私」が実在して作品を運んでおり、同人誌はこういう生一本の作品が載ることで快い風が吹きかよう。この誌には川崎彰彦というリードオフマンが居る。》

など、なじみの名前が出て来ると、保昌先生、なかなかの読み手じゃない、などと不遜なことを思うのである。

些文の方ではやはり古本屋の話が目に留まる。早稲田に古本屋がいくつか増えたという。

《新本屋(こういうことばもあるのだ)に近い古本屋だ。新本屋に出た庄野潤三や倉橋由美子の本がほとんどすぐさま定価をウワマワル値段が貼られて古本屋の棚にならぶ。そして、けっこうそういう本が動く、ーー売れるのだ。》

というところから、個人全集・選集の話に移って、全集を揃えることに疑問を呈する。それよりも作品集を一冊一冊集めて揃えてみたいという。

《全集というのはどこか墓に似ているのではないか。昨今の個人全集の頻出は一つの墓場を想わせないでもない。生前全集についていえば、それはれいの赤い字のはいっている墓である。そして大きい墓ほど改葬に骨が折れるかもしれない。そんなことも考える。
 墓を購うよりは骨を拾いたい。骨を拾うことが、さきの「揃える」ことで、それが古本屋を活気づけているとしたら、それも一つの功徳ではないか。いささか一人合点だが、こんなことも考える。》(昭和四十七年六月)

『サンパン』保昌正夫追悼号(EDI、二〇〇三年三月)には「保昌正夫著作目録」(矢部登編)が収められている。このことをさきほど思い出した。先日の「雑誌『ヴァリエテ』のことなど」は『七十まで ときどきの勉強ほか』(朝日書林、一九九五年)に収められているようだ。また「購書雑記」というタイトルも見えているので、『銅鑼』の「購書記抄」もそこに含まれるのかもしれない。この本は架蔵(郷里)しているので、いずれ確かめて見たい。(別の文章だとご教示をいただきました)。

保昌正夫先生略歴(サンパンより、一部記述を省略して引用)
一九二五年三月二六日 東京都牛込区(現新宿区)筑土八幡町に生まれる。
一九四二年三月 東京高等師範学校付属中学卒業。
一九四六年三月 早稲田大学高等師範部国語漢文科卒業。
一九四九年三月 早稲田大学文学部国文学専攻卒業。卒業論文は「横光利一論」
一九四九年四月 早稲田大学高等学院助手。五一年四月教諭。六八年三月まで。
一九六八年四月 武蔵野美術大学造形学部助教授。七〇年教授。七九年三月まで
一九七九年四月 相模女子大学学芸学部国文科教授。八九年三月まで。
一九八九年四月 立正大学文学部国文科教授。九五年三月定年退職。
この間、早稲田大学、日本大学、立教大学、大東文化大学、跡見学園女子大学などの非常勤講師、日本近代文学館、神奈川近代文学館、東京都立近代文学博物館、高見順文学振興会、日本近代文学会、昭和文学会などの役員を務める。
二〇〇二年一一月二〇日午前一一時五五分、心筋梗塞のため自宅にて永眠。


by sumus_co | 2012-05-16 22:30 | 古書日録 | Trackback | Comments(2)
星の女

鈴木三重吉『世界童話集 星の女』(春陽堂少年文庫23、一九三二年一〇月一五日)。表紙は木村荘八。ルネサンスのオーナメントを(おそらく外国の装飾図案集から)ペンでスケッチしてあしらってある。

以下の挿絵が誰の作か、この文庫には記されていない。大正六年春陽堂刊の元本を検索してみると清水良雄装画だった(ほるぷの復刻があるようだが、これまで見た覚えがない)。そう言われてみると、たしかに清水良雄である。

「星の女」より。インドの民話らしいが「羽衣」と似たような構造だ。そして芥川龍之介の「蜘蛛の糸」(初出『赤い鳥』一九一八年七月)は「星の女」のイントロをパクっていた、というかパロディだったかもしれない。《そんなにいきたければ、蜘蛛の王さまにさう言つて、蜘蛛の糸をつたはつて下しておもらひなさい》という月の夫人の言葉で星の女三姉妹が下界の泉に降りて来るのだから。

「象の鼻」。こちらはキップリング原作だが、芥川龍之介の「鼻」(初出『新思潮』創刊号、一九一六年)を連想させる話。像の鼻はなぜ長いか。

「大烏」。少年が大烏に次々と試練を与えられて一人前以上の男になるというデンマークの不思議なお話。

「ぶくぶく長々火の目小僧」はロシヤのお話。なかなか面白い。桃太郎の鬼退治みたいにというか、Xメンのような三人の特殊能力をもつ家来を連れて嫁取りに出かける。奇想天外とはこのこと。

 ***

数日間ブログをお休みさせていただきます。




by sumus_co | 2012-05-10 21:46 | 古書日録 | Trackback | Comments(0)
ディドロのクラヴサン

『LE CLAVECIN DE DIDEROT』(J-J.Pauvert éditeur, 1966)。パリの古本屋にて、その表紙の文字レイアウトに惹かれて購入。この後、何冊か叢書「リベルテ」を見かけたが、タイトルと著者名が変るだけで、レイアウトや書体は同じだった。

ルネ・クルヴェル(René Crevel, né le 10 août 1900 et mort le 18 juin 1935)はフランスの詩人・小説家。シュルレアリスム運動に早くから参加していたが、三十五歳で自殺した。作品はもちろん読んだこともなかった(今もつまみ読みていど)。検索すると小説『ぼくの肉体とぼく』(三好郁朗訳、雪華社、一九八五年)が邦訳されており、鈴木大悟『ルネ・クルヴェル ちりぢりの生 シュルレアリスムの25時』(水声社、二〇一一年)が昨年出たようだ。

小生がクルヴェルのことをはっきり記憶したのはルイス・ブニュエルの『映画、わが自由の幻想』(矢島翠訳、早川書房、一九八四年)を読んだときである。シュルレアリストや映画人の群像をブニュエルらしい辛辣な観察で綴った自伝で、じつに痛快な読み物だ。

《ルネ・クルヴェルには、この上ないやさしさがあった。仲間ではただひとりの同性愛者だった彼は、この性向とたたかって克服しようとつとめていた。このたたかいは、共産主義者とシュルレアリストの間の無数の論争を深刻化させることになり、ある夜十一時、自殺によって終りを告げた。遺体は翌朝になって門番に発見された。あたかもその時、わたしはパリにいなかった。われわれは皆、個人の苦悩から生まれたこの死を悼んだ。》

そして注目すべきは(『古本屋を怒らせる方法』にもこの逸話に触れた一篇を収録してあるが)ルネ・クルヴェルの自殺直後のドタバタ。

《ブルトンは《ジュスティーヌ》を一冊、所蔵していたし、ルネ・クルヴェルも持っていた。クルヴェルが自殺した時、まっ先に駆けつけたのは、ダリだった。続いてブルトンが、グループの他のメンバーにさきがけて、到着した。数時間遅れて、クルヴェルの愛人が、ロンドンから飛行機でやって来た。死後のとり込みのなかで、《ジュスティーヌ》が姿を消していることに気がついたのは、彼女だった。
 だれかが、盗んだのだ。ダリか? あり得ない。ブルトンか? 馬鹿げている。それに彼は一冊持っているのだ。とはいえ、本を盗んだのは、クルヴェルの蔵書についてよく知っている、親しい仲間のひとりだった。この罪を免れる日に罪を犯した奴。》

引用中に《ジュスティーヌ》とあるのはサド侯爵の著作である。当時はまだサドの著作を手に入れることは困難だった。ブルニュエルはベルリンでごく少部数発行された『ソドム百二十日』、これはマルセル・プルーストも入手していたそうだが、を知人から借りて読んだ。これまで読んできた世界文学の傑作が一瞬にして色褪せてしまった。たちまちにしてあらゆる価値もあらゆる重要性も剥ぎ取られたように思えたそうだ。サドには当時それほどの破壊力があったのである。それが今はペーパーバックで読めるのだから、世界は堕落した、あ、いや、進歩した。

マン・レイが撮影したルネ・クルヴェル。一九二八年。ブニュエルは次のように書いている。

《これにつけ加えてーーダリにいわれて気づいたのだがーーシュルレアリストたちは、美しかった。アンドレ・ブルトンの、光輝ある獅子のごとき美しさは、会うなり人の目をとらえた。より気取った感じの、アラゴンの美しさ。エリュアール、クルヴェル、ダリ自身、そしてマックス・エルンストの、目の澄んだ、驚くべき鳥類の相貌、さらにピエール・ユニクやほかのすべての者たち。火と燃えて、誇らかだった、忘れがたきグループ。》

L'OR DU TEMPS の古書目録を二月に紹介したが、そこにクルヴェルの手紙が出ていた。
一九二六年にニュー・ジャージーで出版された自著『1830』を作曲家のヴァージル・トムソン(パリで学んでいた)へ贈ったもの。手紙付。宛先がジャコブ通りのホテル・ジャコブ。サンジェルマン・デ・プレ界隈。たいへん珍しい(Très rare)そうだ。

by sumus_co | 2012-05-09 21:35 | 古書日録 | Trackback | Comments(2)