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スペクタクルの社会

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ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』(木下誠訳、ちくま学芸文庫、二〇一〇年四刷)読了。オザンヌ書店の目録でオリジナルの図版を見て興味をもった。海文堂書店に注文して入手したもの。

ギー・ドゥボール
http://sumus.exblog.jp/20720111/

ギャラリー島田でこの『スペクタクルの社会』を読んでいたら「林さん、シチュアシオニストですか?」と声をかけられた。「え? まさか違いますよ」と答えてはみたもののシチュアシオニストって何?というのが心の声だった(まだ途中までしか読んでいなかった。ただし、こういう問いかけに対しては常に否定で答えるべし。本書の解説まで読んで納得)。

「スペクタクルの社会」は社会はスペクタクル(見世物)だという、いかにも映画から出発したドゥボールらしい理論(というほどのものでもない、世界解釈とでもいうべきか)。一九六八年の五月革命に影響を与えたと言われているが、この内容で影響が与えられたのなら、よほど当時の学生や労働者は鬱積したものがあったとしか思えない。

文明論としてはいいところ衝いている。しかし運動となるには尖りすぎだろう。ドゥボールの基本的な考え方は「分離」である。スクリーンの前の観客たちに横のつながりがないように、現代社会に生きる個人はスペクタクルに目をくらまされ本当の生から分離(個別に疎外)されている。それにより権力は社会を容易に操作することが出来る。まさか世の中そんなに単純じゃないだろうが、ある種の先見性と言うべきかどうか、たしかに五十年前の世界よりも現在の世界に対しての方がよりいっそうぴったり当てはまる指摘もある。

《近代的産業にもとづく社会がスペクタクル的であるのは、偶然でもなければ、表面的なことでもない。そうした社会は本質的にスペクタクル主義的なのである。支配的経済のイメージであるスペクタクルにおいて、目的は無であり、発展こそすべてである。スペクタクルがなろうとしめざしているものは、己れ自身以外の何ものでもない。》

ドゥボール(一九九四年に自死)がスマホに支配されている現代人を見たなら、それみたことかオレの言った通りになっているとうそぶきそうだ。

《スペクタクルにおいて、世界の一部がこの世界の前で演じられ[=代理-表象され(se représente)]、しかもそれはこの世界よりも優れたものなのである。スペクタクルとは、この分離の共通言語にほかならない。観客どうしを結びつけるものは、彼らを孤立状態に保つ中心自体に対する彼らの不可逆的な関係だけである。スペクタクルは分離されたものを一つに結び合わせるが、分離されたままのものとして結び合わせるのである。》

《観客が凝視すればするほど、観客の生は貧しくなり、観客の欲求を表す支配的なイメージのなかに観客が己の姿を認めることを受け容れれば受け入れるほど、観客は自分自身の実在と自分自身の欲望がますます理解できなくなる。活動的な人間に対するスペクタクルの外在性は、客観の身振りがもはや彼自身のものではなく、自分に代わってそれを行っている誰か他人のものであるというところに現れてくる。それゆえ、観客はわが家にいながらどこにもいないような感覚を覚える。というのも、スペクタクルはいたるところにあるからである。》

ネット、スマホ社会にこそこれらの指摘はよりいっそう似つかわしい。ただ、ではそれをどうするのか、ということになると、まったく弱い。弱いというよりもドゥボールの説くプロレタリアートによる革命というものがスペクタクル社会のなかでそのまま自縄自縛に陥ってしまうのである。

シチュアシオニスト、これは以上のような状況を脱すべく実践活動を行う活動家の意味である。転用[détourment、方向を変える]という言葉がキーワードになる。ただしかし、この実践活動はある意味で文化的テロ、その昔ダダイストやシュルレアリストが行ったことと似通った(当人たちは否定するだろうが)かなり子供じみた行為である(例えば落書きだとか)。しかも仲間割れがひどい。除名のオンパレード。

結局彼らは最後には自らの理論で自らを終わらせることになる、というか、スペクタクルではない世界というものはしょせんこの世では成り立たないのである。映画を否定して映画を撮ることができないのと同じである。映画でないなら映画じゃないし、映画なら映画を否定できない。ジレンマ。

《七〇年に入ると、SI[シチュアシオニスト・インタナショナル]内外での行動の欠如と観念論的議論の沸騰が著しくなり、SIはこれに抗して、沈黙という武器で闘い、さらに、もはやSIの理論の普及の役割を果たさなくなった機関誌の刊行を中止した。》

《ドゥボールらはSIが「最後の形態の革命スペクタクル」とならないように、SIを破壊する闘争を開始する。》

自壊して終わるように運命づけられていた。
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by sumus_co | 2013-10-15 20:59 | おすすめ本棚

胞子文学名作選

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田中美穂編『胞子文学名作選』(港の人、二〇一三年九月二三日、ブックデザイン=吉岡秀典)。本の装幀などをやっていると、必ずこういう本を作ってみたくなるときがある。しかしたいていは予算や著者の反応などを慮って結局はそこそこ大人しい仕上がりでまとめてしまう。そういう意味からすれば、この造本は相当に気張った仕上がりである。それは間違いない。ただそれが成功しているのかどうか、意見が分かれるかもしれない。意見が分かれるのはいい仕事だとも言えなくはない。

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レイアウトは凝り過ぎている。対して、内容は安易といえば安易である。アンソロジーなどというものは所詮安易な企画だ。しかし、そこに腕の見せ所がある。何をどう選ぶかに全てがかかっているわけだ。その点では蟲文庫・田中美穂さんが選んだ胞子文学アンソロジーはさすが苔好き古書店主と思わせるものがある。

やはり唸ったのは「幽閉」だ。井伏鱒二「山椒魚」のプロトタイプ。同人雑誌『世紀』に掲載されたこの作品を読んだ中学生の太宰治はこの人に師事すると決めた。田中さんの解説によれば、

《井伏鱒二の生家近くに、訪れる人のあまり多くはないひっそりとした渓谷があります。》《ここを訪れると、かならず思い出すのがこの「幽閉」。名作としてひろく知られる「山椒魚」の原形となった井伏鱒二の処女作で、学生時代、郷里への帰省中に書かれたといわれています。山椒魚が出るに出られなくなった岩屋のそのわずかな隙間の外にひろがる景色は、おそらくこの場所がモデルではないかと思うのです。
 作中にある「岩屋の天井にぎっしりとくっついている、杉苔とぜに苔」という光景は、実際にはありえません。苔は光合成が必要な植物なので、日の光のとどかない環境で生活してゆくことはできないのです。でも、その苔についての描写はとても細やか。ここでは「苔の実」と書かれている胞子体の柄が静かに伸び、やがて「花粉」(胞子)を散らしてゆく、ひそやかでドラマチックなさまは、当の山椒魚の憂鬱を横目に、ついうっとりと繰り返し読んでしまいます。》

ということである。井伏はスタート時点から大嘘つきだった。見事な嘘つきだ。一方、井伏を天才だと見て取った太宰からは「魚服記」が選ばれている。つげ義春の「紅い花」を連想させる(むろん逆なのですが)短篇である。これがまた欄外註記のように小文字で組まれていてはなはだ読み難く心憎い。

千変万化の版面からしてどの作品が読みやすいというわけでもないが、《古今比類ない胞子文学》の金字塔、尾崎翠「第七官界彷徨」はふつうに読めるように配慮されている。これは有り難かった。「第七官界彷徨」を読もうとずっと思いながら、どうしてもその気になれず逃していたので、こんな瑞々しい少女マンガのような作品だったとはびっくり。初出は昭和六年。なんとも摩訶不思議な時代だったようだ。

アンソロジーでなければ出会わない作品もある、ということである。



港の人 『胞子文学名作選』
http://www.minatonohito.jp/products/141_01.html
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by sumus_co | 2013-10-07 17:43 | おすすめ本棚

瀬戸内海のスケッチ

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山本善行選『瀬戸内海のスケッチ 黒島伝治作品集』(サウダージ・ブックス、二〇一三年一〇日一九日、装幀=加藤賢一、装画=nakaban)読了。カバーの表と裏に nakaban のイラストレーションが配されているのが目を惹く。

小生も讃岐の出身ながら、小豆島には一度合宿で泊まったことがあるだけで(そのときは星空がたいそう美しかった)そう強い印象はない。他には子供の頃に父母たちと寒霞渓(藤沢南岳による命名)へ観光したおぼろげな記憶もあるが、これもはるか遠い昔のことだ。やはり小豆島と聞けば、オリーブであり醤油、そうめんであり、壷井栄であり尾崎放哉である(現在はどちらも記念館ができているらしい)。黒島伝治は

《僕の村は、文学をやる人間、殊に、小説を読んだり、又、小説を書いたりする人間は、国賊のようにつまはじきをされる村であった。》(「僕の文学的経歴」)

と書き、東京へ出た後ある講演会で

《ふと、同村の壺井繁治に出会した。そこで始めて、壷井が文学をやろうとしているのを知った。意外だった。文学をやる人間を国賊のように云う村から、文学がすきな人間が二人出ていたからである。》

と続けている。壷井も小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)の出身、壷井栄の夫。黒島より一歳年長で昭和五十年に七十八歳で亡くなっているが、昭和十八年に四十五歳足らずで歿した黒島の顕彰に努めた作家である。

長い間、『渦巻ける烏の群』(岩波文庫)と『橇・豚群』(新日本文庫)が棚に差してあった。たぶんある程度は読んでいただろう、非常に上手い作家だという認識はあった。しかしそれ以上体系的に読むとか、全集を買うとか、そこまではのめりこめなかった。それが、いつだったか、わりと最近、ここ五年くらいの内に雑誌『文学時代』(新潮社)の昭和四年十月号を求めたことがあって、そこに「短篇小説二十五人集」という特集が組まれていた。当時流行だったプロレタリア作家とモダニスト(稲垣足穂も入っている)が選ばれており、黒島も「蚊帳と偽札」というコントを寄稿していた。これがちょっと面白い貧乏物語で、コミカルなオチまであって、黒島伝治ってこんな小品も書くのかと驚いたことを覚えている。下の紹介は『文学時代』より。

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そう思ったまま、黒島に関してはそのままとくに変化もなく、ただひとつ事件らしきものとしては、去年あたりしばしば帰郷していた頃に高松の古書店に黒島の初版本(重版もあったか)が五冊くらい並んでいたのを見つけた。ところがこれがまた絶妙な値付けであって、要するに日本の古本屋よりは確実に安くしながら、でもセドリするほどじゃないよ、という感じだった。それでも迷っているうちにめぼしい本は売れてしまったから、やはり黒島人気は手堅いのかもしれないとやっと気が付いた。

ちょっと検索してみると、二〇〇〇年代に入って黒島伝治に関する研究書が何冊も刊行されている他に、作品もポプラ社の百年文庫『村』(黒島伝治・葛西善蔵・杉浦明平、二〇一一年)に二篇、『アンソロジー・プロレタリア文学. 1』(森話社、二〇一三年)には一篇が選ばれるなどしている。

そしてこの本が出た。これは山本善行選だから、読んで面白いことは言うまでもない。そういう作品が注意深く選ばれている。短篇が連なっているから次はどんな話になるのか、読むのを止められなくなるくらいである。

《私は、黒島伝治の小説を読み始めると、その呼吸、リズムにからだをあずけるのが気持ちよく、気がつけば、からだがその物語の中にどっぷり浸かっているのだった。また、黒島の小説の特徴として、会話文の巧みさがあると思う。話し言葉を上手く使うことで、物語を生き生きと描き出している。》(解説)

これにはまったく同感だ。黒島の登場人物たちの会話を読んでいると、小生の父母や近隣に住む村人(「部落のしい」という、部落は集落の一単位である、「しい」は衆の訛)の会話を思い出す。

《「さあさあ、えいもんやるぞ。」
 ある時、与助は、懐中に手を入れて子供に期待心を抱かせながら、容易に、肝心なものを出してきなかった。
「なに、お父う?」
「えいもんじゃ。」
「なに?……早ようお呉れ!」
「きれいな、きれいなもんじゃぞ。」
[略]
「こんな紙やこしどうなりゃ!」
「見てみい。きれいじゃろうが。……ここにこら、お日さんが出てきよって、川の中に鶴が立って居るんじゃ。」彼は絵の説明をした。
「どれが鶴?」
「これじゃ。ーー鶴は頸の長い鳥じゃ。」
子供は鶴を珍しがって見いった。
「ほんまの鶴はどんなん?」
「そんな恰好でもっと大けいんじゃ。」
「それゃ、どこに居るん?」
「金ン比羅さんに居るんじゃ。わいらがもっと大けになったら金ン比羅参りに連れて行てやるぞ。」
「うん、連れて行て。」
「嬉し、嬉し、うち、金ン比羅参りに連れて行て貰うて、鶴を見て来る。鶴を見て来る。」せつは、畳の上をぴんぴんはねまわって、母の膝下へざれつきに行った。与助は、にこにこしながらそれを見ていた。
「そんなにすな、うるさい。」まだその時は妊娠中だった妻は、けだるそうにして、子供たちをうるさがった。》(「砂糖泥棒」)

……というような、ひとときタイムスリップしたような錯覚に陥る読書体験であった。多少、キャラクタ作り、物語作りがパターン化している気がしないではないが、それはある意味、面白さの秘密かもしれない。悪人はあくまであくどく、見栄張りは見栄を張りつづける。チェーホフ、フィリップ、メリメなどの影響もあるのだろう。しかし、所変われば品変わるで、彼らの作風を連想させるかと言うと、そんなことはまったくなく、あくまで大正時代頃の小豆島の人間模様が芝居か映画を見るように展開される描写にどっぷり浸れるのである。


サウダージ・ブックス
http://saudadebooks.jimdo.com
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by sumus_co | 2013-10-02 21:36 | おすすめ本棚

小林かいち

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生田誠・石川桂子『小林かいち 乙女デコ・京都モダンのデザイナー』(らんぷの本、河出書房新社、二〇一三年九月三〇日)。

五年ほど前までは生没年すらはっきりとは分らなかった、幻の作家小林かいち。同じ祇園ゆかりの生田氏が精力的に探求してきた結果、そのほぼ全貌が見えて来た。そしてその最新のかいち情報が、周辺の関連作家や社会状況とともにこの本に詰めこまれている。かいちの絵封筒作品を木版画で再現(復刻)するという試みも行われ、その制作過程が写真入りで紹介されている。内容充実の一冊。

1920〜30年代、乙女のハートをつかんだデザイナー「小林かいち」を知っていますか?
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309750026/

京都図書研究会 小林かいち、竹久夢二の絵封筒
http://sumus.exblog.jp/11765305/

甦る小林かいち 都モダンの絵封筒(二玄社、二〇〇八年)
http://sumus.exblog.jp/9706246/
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by sumus_co | 2013-10-01 19:35 | おすすめ本棚

石川淳傅説

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渡辺喜一郎『石川淳傅説』(右文書院、二〇一三年八月三〇日、装幀=臼井新太郎)読了。

「はじめに」に面白い話が披露されている。まだ流行作家となる前の石川淳が世話になった海老名雄二という人物がいる。著者は昭和四十年代末から度々海老名を訪問して石川のことを聞き出し、それを文章にして発表していた。

《その都度石川に送った。どうもその「伝記的研究」がいけなかったようだ。昭和六十一年二月に来た石川からの最後のハガキには「貴下の書くものが不快で氣に入りません」などと来訪などを断る文面であった。前年までの七通の"電文"のようなハガキはすべて好意的であったのに。》

渡辺は石川の逆鱗に触れた。それにしても昭和六十一年というと、石川は八十七歳である。まだ生々しい逆鱗が残っているというのも逆に不思議だし(ただし人が年齢を重ねると寛容になると考えるのは、考える方が間違っているのかもしれない)、それまでも研究者の作った年譜をバッサリ切ってしまうなど、作家としては、というより作家にしては肝っ玉の小さい男だという気がしないでもない。

しかしながら、石川の前半生についての、絶対的な資料不足を数々のインタビューなどで補ったこの詳細な調査を読めば、たしかに隠したくもなろう、なんというろくでもない男なのか、という思いを強くする。例えば、例えばだが、先日ドラマを見たばかりのせいか『夫婦善哉』のどうしようもない主人公、勘当されたぼんぼんの柳吉、そんな男を連想する。とにかくその屈折ぶりが生半可なものでないことは石川の作品を読んだ者は誰しも感じるだろう。具体的にどのようにすればあのような文体の作家ができるのか、というのは本書によって初めて明らかにされた、と言ってよいかもしれない。

まるで石川の悪口を書いているように思われては心外であるが、事実というものは誰にとってもいつも都合がいいとは限らず(だからこそ事実は常に玉虫色なのであろうが)、往々にして恥辱や汚辱にまみれているものであろう。それを喧伝する必要はないにせよ、抹殺しようと思っても容易に抹殺できるものでもない。社会的に認められた作家ともなれば、時間の闇のなかから事実という汚物を楽しげに探り出してくる研究者が必ず現れる。作家や詩人の放縦や欠陥は、それこそ勲章なのではないかとも思ったりもするのだが、上述の拗ねぶりからして石川は案外と根は当たり前の人間だったのかも知れない。稲垣足穂は「弥勒」で石川の言葉をこういうふうに書きとめている。

《(石川淳が)怒るように云った。「もっともお前が何を仕出かそうと問題ではないが、それならそれで仕事をしろ。くだらないものは書くな。お前が仕事をしているなら、お前がヴィヨンのように泥棒であろうと、あるいは人殺しであろうと一向に構わぬ」》

石川の行状がどうであれ、作品さえ良ければ一向に構わない……はずだ。本書は本文も読みでがあるし、巻末の年譜はこれだけでも大変に貴重なもの。石川淳をもう一度読み直したくなること請け合いである。

 *

最後に、小生が二〇〇四年に「書評のメルマガ」に書いた「石川淳『諸國畸人傳』中公文庫、1976年」をせっかくだから貼付けておく。この時もし『石川淳傅説』を読んでいたら、まったく違ったことを書いただろう。

 *

石川淳『諸國畸人傳』中公文庫、1976年

 書物との出会いというのは本当に不思議なものだ。京都三条の湯川書房で(元来は出版社なのだが、そこでは古書も販売している)雑誌『すばる』4月臨時増刊・石川淳追悼記念号(集英社、一九八八年四月二五日発行)を入手し、改めてその不思議を体験した。

 この追悼記念号は、刊行された直後に神戸のある書店で(郊外型の割といい本屋だったがすぐに潰れてしまった)、買うべきかどうかかなり迷った揚げ句、結局は書棚に戻したものだった。そのときの逡巡の記憶が書店の風景とともに永らく、面妖にも、くっきりと脳裏に残っていて、これはいずれ手に入れなければならない運命か、などとときどき思い出していた。
 
 絶筆および二十代初期短編をも収録したこの追悼号はたしかに記念的な内容である。中村真一郎、佐々木基一、丸谷才一の鼎談もきわめて示唆に富む。文士たちの追悼文集も読み応えがある。なかで河盛好蔵の「思い出一つ」が引っかかった。河盛は石川淳の名前をアンドレ・ジイド『背徳者』(新潮社、一九二四年/改造文庫、一九二九年/新潮文庫、一九三四年)の訳者として初めて知り、同じく石川訳の『法王庁の抜穴』(岩波文庫、一九二八年)を愛読した。それは《この岩波文庫を日本から送らせて、パリの下宿で耽読したことを覚えている。原文は遂に読まなかった》ほどであった。

 この記事を読んだ翌日、恵文社一乗寺店の古書コーナーで『法王庁の抜穴』(岩波文庫、一九三六年七刷/原文旧漢字)を入手した。以前からそこにあったのかも知れないが、背文字も読みとれないような文庫本、しかも千円なのだから、河盛文を読んでいなければ決して購入するはずのないものである。河盛は石川の《ちなみに、Caveの訳語は以前は地下室といつてゐたやうだが、これを抜穴としたのはやつぱりわたしのさかしらである。わたしの翻訳の仕事はまあ十人並といふ程度で、とくに謙遜もして見せないが、決して自慢するやうなものではない。しかし、この抜穴といふ一語だけはわたしのたつた一つの名訳ぢやないかとおもふ》(「ジイドむかしばなし」)という文章を引用しておいて上述のように告白していた。

 名訳というのは大方は誤訳の別名であろう。石川が「抜穴」と訳した Cave(原題は Les Caves du Vatican で複数形)の今日的な意味はワインセラー(葡萄酒の地下貯蔵庫、カーヴ・ア・ヴァン)で、地下キャバレーのことも指す。他にクリプト(地下礼拝室、納骨堂)とかグロット(洞窟)と同義に使われる例も希にあるようだ。源はラテン語 cavus(洞穴)。また『法王庁の抜穴』の本文中に《Cave は、『注意せよ』と云ふ意味もある羅典語なのですぞ》とあるけれど、これは caveo(注意する)の命令形 Cave のことで、ひょっとしてジードはこの駄洒落が気に入ってタイトルをでっち上げたのかもしれない。

『法王庁の抜穴』はミステリー小説だ。よって、ここで筋書きを述べることは控える。が、ごく簡単に言えば、学校時代の親友二人(ラフカディオとプロトス)が、既成の秩序を省みない若者として、世の中に泳ぎ出してから数奇な邂逅をなすというのが基本線。例によって無神論がここに絡みついてくる。

 さて、この古ぼけた岩波文庫を持って、しばらく田舎に帰った。郷里の本棚を整理していると、すっかり忘れていた『法王庁の抜穴』(生島遼一訳、新潮文庫、一九七一年二十二刷、初版は一九五二年)が転がり出てきて驚いた。生島は早く昭和十二年(一九三七)に改造文庫から『法王庁の抜穴』を翻訳刊行している。しかしこれは考えてみれば妙なことで、そのときには昭和十一年発行の石川訳第七刷(すなわち小生が入手したもの)がまだ書店に並んでいたはずではなかろうか。しかもまったく同じタイトルだ。誤訳すれすれなのだから変えても良かったはずだが、変えない方がより良いとの判断だったとすれば、やはり名訳ということになる。それにしても、岩波書店は日本語版権を独占していなかったのか? そもそもジードに著作料を払っていたのだろうか? 

 この点、山内義雄(仏文学者、翻訳家、東京外国語学校卒、石川の先輩に当たる)の回想によれば、少なくとも『狭き門』(窄き門)を大正十二年(1923)に新潮社から翻訳刊行する際には、当時の駐日フランス大使ポール・クローデルの紹介によって、ジイドから直々の承諾を得たという。なお、クローデルはジイドの『法王庁の抜穴』を評価せず、二人は七年間ほども疎遠になっていたが、この通信が旧交を復活させる機縁になったらしい(山内「ジイドの思い出」)。そして山内訳『狭き門』には石川の跋文が付いていた。戦後の白水社版にも再録されているが、その語調はかなり熱く、ジイドへの傾倒ぶりがうかがえるようである。

 はっきり言って、石川訳第七刷は、本としてはかなり粗雑だ。活字が抜けた空白があちらこちらに目だつし、刷りムラもはなはだしい。昭和十八九年ならともかく十一年なのだから、どうしても版元の怠慢である。しかも「抜穴」に象徴されるように、石川訳には多少の強引さがあるらしく思える。一番目立つ箇所は次の手紙の書き出し。

《兄弟………》石川訳
《可愛いひと……》生島訳、新潮文庫版

 フランス語では男女の区別ははっきりしている。生島は女性宛の手紙と解釈した。どちらかが間違っている。というか、石川訳が怪しい。生島は一九〇一年大阪生まれ、京都帝大仏文科卒業(河盛や桑原武夫と親しく交わった)、翻訳者として活躍、京都大学教授を経て一九九一年に没している。石川より二年遅く生まれ二歳多く生きた。

 無論、こんな揚げ足取りをして石川の翻訳を貶めようという積もりは毛頭ない。河盛が《石川さんが後年『狂風記』を発表されたとき、この作品には『法王庁の抜穴』のレミニッサンス(無意識記憶)があるのではないかと思われてならなかった》と指摘しているように、文筆家としての石川はすでに『法王庁の抜穴』において完成されていると言いたいのだ。例えば、次の一節。

《あはれなジュリウス! 書き手はうんとあるが、読み手はろくにない。それは事実だ。人はだんだん読まなくなる…………他人の口吻を借りて、己を推して攷へればだな。結局は、破滅が来るだらう》石川訳

《困った男だ、ジュリウスは! 書き手は大勢あるが、読み手はごく少数だ、だんだん人間は本を読まなくなる。これは事実だ。あの先生のいう通りこのおれが第一そうなんだから。いずれ最後には、悲惨な破滅がやって来るだろう》生島訳

 ここで言うジュリウスは作中人物、作家である(嗚呼、この嘆き、今に始まったことではなかったらしい)。どうだろう、二者の筆法違いは! ある意味、石川訳は、難アリの岩波文庫第七刷のようなもので、少々の不備をも含め、物質的な抵抗感のある存在ではないだろうか。(ちなみに、帰郷中、新古書店ブックマーケットで十年前に手放したまま邂逅のチャンスがなかった『狂風記』(集英社文庫、一九八五年)上下二冊を四百円で見つけた。本は本を呼ぶ)

 石川が『法王庁の抜穴』を翻訳出版したのは二十九歳、いまだ小説家としては認められていなかった。引き続きジイドなどを反訳しつつ、昭和十年頃から本格的な創作の発表を開始、十二年に「普賢」で第四回芥川賞を受けて文壇的な評価を確かなものとした。石川のこの時期の作品発表は雑誌『作品』(作品社、一九三〇~四〇年)を中心に行われ、受賞作「普賢」も同誌に連載されていた。この点でも『作品』の編集責任者だった小野松二を調べている小生としては、とりわけ因縁めいたものを感じる。

 ということで、いよいよここから『諸國畸人傳』の解剖に取りかかる腹づもりだったのだが、紙数が尽きた。この列伝が石川のベストだと断言しては石川ファンに申し訳ないかもしれないけれど、《石川さんの小説は実感がないんだから。虚感しかないわけだから》(中村真一郎)あるいは《石川淳のエッセイは、いくら学問的に深くても、ぼくはペダンティックのまま終わったと思う故に認めたくない。澁澤龍彦のようにペダンティックが昇華して芸術にならなかった》(奥野健男)という洞察に首肯しつつ、『諸國畸人傳』の不器用な我儘ぶり、「マスマのバカばなし」(同書「武田石翁」参照)を嘆賞するものである。


 *

紙数が尽きた……って、メルマガなんだから紙数は関係ないはずだけど(苦笑)。
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by sumus_co | 2013-09-29 21:33 | おすすめ本棚

木琴デイズ

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通崎睦美『木琴デイズ 平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』(講談社、二〇一三年九月九日、装幀=間村俊一、本文デザイン=西岡勉)読了。力作である。

通崎さんは著名なマリンバ奏者。しかし小生にとって通崎さんと言えば『天使突抜一丁目』(淡交社、二〇〇二年)という著書を出しておられるように、京都の下京区に実在する天使突抜という住所に住んでおられるということで印象深い。この天使は耶蘇の天使ではなく平安時代に天神を祀った「天使の宮」ができたことに由来するというが、一度聞いたら忘れないインパクトのある地名だ。

本書の装幀を手がけておられる間村さん(装幀=間村、本文=西岡というのは通崎さんのご指名だそうだ。さすが)と親しい編集者Yさんが「ぜひ林さんに紹介したい」といって京都市中の料理屋のようなところでお会いしたのが最初だった。先日も拙作個展に来て下さってご挨拶くらいはしたが、こんな本格的な評伝を執筆されているとは知らなかった。

平岡養一という傑出した木琴奏者は若くして渡米、NBCラジオの専属アーティストになるほどの活躍を見せた。日米が交戦状態になるや、米国の友人たちの制止を振り切って帰国、戦時下で多くのレコードを吹き込み、コンサートを開き、音楽挺身あるいは従軍慰安活動に参加した。また敗戦を経ても変わることなく演奏活動を続け「紅白音楽試合」にも出演するなど大衆的な人気を博したそうだ。しかし徐々に木琴という楽器はすたれてゆき、マリンバに取って代わられる。ひとつの時代が終わる。

そして今、またその木琴デイズが復活しようとしている。木琴とマリンバとシロフォン(ザイロフォン)がどうちがうのか、知ってます? そのへんもぬかりなく本書においては詳述されているのでご心配無用。

歴史的記述や文化全般に対する目配りも充分になされており、著者自身が演奏者であるということから単なる評伝を越えた共感や、演奏者ならではの分析も随所に見られて、感嘆しながら読みふけっていたのだが、内容はもとより、その説明の分かり易さが小生のような音楽に昏い人間にも響いてきてある意味意外に感じたほどだ。例えば平岡養一のライバルだった同じ慶応出身の朝吹英一(朝吹の評伝にも一章割かれている)、二人の音楽的な相違を説明するくだり。

《たとえて言うなら、何か困った事態に遭遇したとする。「助けてくれ!」と大声で叫べる、あるいはつい叫んでしまうのが平岡の音楽だとすると、朝吹の音楽には、どんな緊迫した状況にあっても「すみませんが、こういう事情で困っておりますので、助けてはいただけませんか」というような折り目正しさがある。おそらく、朝吹は心から叫べる平岡を心のどこかでうらやましく思いながらも、それを軽蔑する心がないとは言えず、同時に自分は決して叫びたくない、という気持ちがあったに違いない。平岡からすれば、朝吹の美しい音楽作りはどこか「きれいごと」に思えたのではないか。しかし、朝吹の人となりを知る平岡は、その美しさが単なる「作り物」ではなく、朝吹そのものであることを誰よりも知っていたから、その美しさを認めざるを得なかっただろう。》

あるいは平岡の演奏を総括するくだり。

《平岡の弾く旋律は、時に不均等なゆらぎをみせはじめる。
 均等であることに慣れきった現代からすると、平岡の過度なアゴーギグは、時に理解を超えるものだが、どんなに独特の「平岡節」が出てこようとも、決して全体的なビートは揺らぐことがなく、またミス・タッチもほとんどない。平岡の音楽の変遷をみていけば、これが単なる癖ではなく、工夫であり、独特のセンスであったことがわかる。
 より多くの人に語りかけたいと思う平岡の歌心の表れだったのだろう。》

《これらの奏法により、透明感のある木琴の音色に「雑味」が加わったともいえる。音符としては表現できない、すなわち成分表示ができない「雑味」であったからこそ、誰にも真似のできない味わいが生み出された。一部分聞いただけでも「これは平岡の木琴だ」とわかる、平岡養一の世界を確立し、大衆からの人気を得た。》

断片的な引用だが、それでも通崎さんの文章の巧みさがよく分っていただけると思う。通崎さん自身が本書について語っている画像が YouTube で見られるのでご参考まで。また平岡養一と通崎さんの演奏もリンクしてみる。

木琴を弾く通崎睦美 平岡養一の評伝を書いて!
http://www.youtube.com/watch?v=vU854U0oHEY

平岡養一 夢見る人(Beautiful Dreamer) 1974
http://www.youtube.com/watch?v=wtV56wEnAu4

Recorder and Xylophone Duo
http://www.youtube.com/watch?v=CnF--KHdb0s

高遠先生の文楽の本もそうだったけれど、知らない世界の物語を読むのは少々骨が折れるにしても(専門用語や固有名詞に馴染みがないので)、そこから得るものはこちらが思うよりも深く大きいかもしれない。とにかく六十年近く生きてきても世の中知らないことばかりなのだ。だから本は面白い。
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by sumus_co | 2013-09-27 21:48 | おすすめ本棚

古本の時間

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内堀弘『古本の時間』(晶文社、二〇一三年九月一〇日、ブックデザイン=平野甲賀)読了。読み終わるのがもったいない、と思える本がときどきある。関口良雄『昔日の客』夏葉社版『昔日の客』)などがその例として直ぐに思い浮かぶけれども、この『古本の時間』もまさにそんなモッタイナイ本になっている。

帯にこう書かれている。

《数知れない古本との出会いと別れ。多くの作家やファンとの交流の歴史。古本の醍醐味と業界の仲間たちを温かい眼差しで描く、珠玉の古本エッセイ集。》

惹句などはだいたい大袈裟に書くものだが、この本に関しては「珠玉の古本エッセイ集」という常套句を割り引いて読む必要はない。掛け値なし、まさに珠玉である。

この本が出ることは随分前に扉野氏から聞かされていた。中川六平さんが晶文社に復帰していくつかの新刊を手がけることになった、そのなかにまず内堀さんのエッセイ集が上がっているということだった。昨年の十月に東京で内堀さんに会ったときにその話をすると「早耳ですね」と言われたが(早耳なのは扉野氏である)、六平さんと晶文社のために喜ばしいことだと乾杯をした。

その後、今年の四月にメリーゴーランドで内堀さんに会った。大阪の市に珍しい本が出ていたらしく、それを獲得するために来阪する途中、拙作個展に寄ってくれたのだった。そのとき扉野氏と三人で中華料理のテーブルを囲んだ。内堀さんは酒を飲まない。ウーロン茶を傍らに、個人的な悲しいできごとを扉野氏に初めて伝えると言って話し出したが、小生は前年すでに知らされていたので多少心に余裕をもって二人の会話に耳を傾けていた。内堀さんの悲しい話をにこやかに語る様子がかえってこちらの気持ちを沈めた。

もちろんその話はこの本には書かれていない。しかしそれと同じような悲しみをさそう話は幾篇もおさめられている。ほとんど点鬼簿と言ってもいいようなありさまである。ところが、なぜか読後感はさわやかなのだ。悲哀を悲哀として受け入れ、それを昇華させる。他人にしゃべるというのもそのひとつの形だろうし、文章にするのもひとつだろう。むろんそこにはいかに表現するかという技術の問題もあるには違いないが、結局は語り手の心のありようがその語りをただの愚痴にするか、さわやかな物語にするかを分けるのではないだろうか。

「追悼・田村治芳」もそんな悲哀に満ちた一編である。

《葬式のときの写真なのに、これを見ていると顔がほころんでしまう。背中までとどく長髪だったかと思うと、急にこんな坊主頭にしたものだった。》

《それでも、この人は昔のままだった。書物の知識は驚くほど豊富だったけれど、半端なもの、役に立たないものを偏愛し、雑本の面白さにこだわった。古本屋として出来上がっていくのをどこかで拒んでいたようだった。商売下手というのを、何か体裁のいい言葉に置き換えているのではない。
 取り残されたような場所で、そんなところにいても儲からないよといわれても、オレはここが好きなんだと笑っている。ポーズではない。本当に好きなことしかできない、そのどうしようもなさだった。》

同じく田村さんを追悼した日録はこのように締めくくられている。

《葬儀には六百名もの会葬者があった。老舗の大旦那が亡くなってもこんなに大勢の人がお別れに来ることはない。本が好き、読むのが好き、本の話が好き、そんな人たちが、冷たい風が吹く中、いつまでも長い列を作った。この人らしい、いや本当に古本屋らしいラストシーンだった。》

カタルシスと簡単に決めつけてはいけないのだろう。だが、内堀さんの文章は、どんなに侘しい、悲しい話であっても、最後には救いがある。希望がある。諦観というのとはちょっと違う、生き残ったものは自ら信じる道を進むしかないという覚悟が見える。そこに爽やかな風が吹いている。

具体的な内容としては全編を通じて駆け出し時代の回想が頻繁に現れるのが印象的である。たとえば、

《私が神田で古本屋の店員になったのは七〇年代の後半だった。店主は反町の対極にあるような人で、「古本屋は勘と度胸だ」が信条だった。店に入った頃、といっても学校を追い出されて転がり込んだものだから、どこからか「ウチボリは爆弾犯だ」という嫌がらせの電話があった。しかし店主は「そのくらいの度胸がなきゃ、いい古本屋にはなれない」と言うだけで、せめて嘘か本当かぐらい聞いてくれよと思ったものだ。こんな博徒のような古本屋がまだ肩で風を切っている時代だった。》

だとか

《鶉屋書店は七〇年代に、たしか池袋西武百貨店だったと思うが、大きな古書展の合同目録にズラリと主力の在庫、つまり詩歌書を載せたことがある。この目録を、私は暮の神保町で、どこかの店が大掃除で出したゴミの中に見つけて抜き出した。あれも一九八〇年のことだ。》

長髪にGパンの内堀さんが、木造モルタルのアパートの一階の五坪ほどの小さな店へ、そのゴミの中から拾った目録にかじりつきながら帰って行く姿が目に浮かぶようである。店の床の古いPタイルが小さく剥がれ、一本の珍しい草が生えている、そんな懐かしい場所へ。

個人的に嬉しかったのは238頁に「レッテル」という単語を見つけたこと。これは小生が提唱(?)する書店標の呼び方である(以前はたいていシールと呼ばれていた)。少しは浸透したかな、単なる偶然かもしれないが。
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by sumus_co | 2013-09-12 21:55 | おすすめ本棚

七世竹本住大夫

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高遠弘美『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』(講談社、二〇一三年九月二日)読了。高遠氏は光文社古典新訳文庫からプルースト『失われた時を求めて』の個人訳を刊行しつづけておられる方である。それがどうして? 文楽とは?

第一章に出会いが詳細に語られている。二〇〇〇年、明治大学で教鞭を執られるようになってから観劇三昧に。そのとき丸本歌舞伎のもともとの形を確かめるために文楽へ通いはじめ、二〇〇二年五月東京公演で竹本住大夫を聴いてすっかり魅了されてしまった。

《私はこの日、住大夫の「桜丸腹切の段」を聴いてその世界のあまりに深い美しさと真実に心動かされたのですが、上述のように、それはクライマックスとも言える腹切の場面よりずっと前、そもそもの出だしからでした。運命に翻弄される桜丸や白太夫や桜丸の妻八重の心情が胸に迫り、それをあらしめているのが住大夫の浄瑠璃だと気がついた瞬間、私は自分がいまこれ以上ないほど幸運な現場にいることに思い至りました。そして、これが表現というものだ、これこそが全的な表現というものなのだと感じて、五十歳近くになってようやく義太夫の世界に開眼した喜びに浸るとともに、そこまで導いて下さった住大夫師に心から感謝していたのです。》

そしてその開眼はプルーストに対する心境にも影響を与えた。

《今私は『失われた時を求めて』の個人全訳に挑んでいますが、研究の観点と言うより、読者の一人としてプルーストの魅力に囚われるままに、その感覚を日本語でどう表現したらよいかをつねに考えるようになりました。研究論文に汲々としている頃は、プルーストを材料にしているつもりでしたが、今からするとそれはとんでもないことで、傲岸不遜ですらありました。プルーストという途方もなく大きな作家の記念碑的作品を個人全訳するには、私自身が虚心坦懐に作品の魅力を十全に感得しなければなりません。プルーストの文章に無心に素直に向かうことで、読者に何かを伝えうる翻訳になると思えたのは、すべて住大夫のお蔭と言っていいでしょう。》

具体的には

《『失われた時を求めて』は私の訳では全十四巻にもなる長大な作品で、しかも改行が少なく、一文が二十行や三十行続くことはしばしばあります。何度も読んでいるはずなのに、いざ翻訳しようと思うと、まるで迷路に入った感じがすることすらあるほどです。しかし、そういうとき、私は「基本に忠実に素直に」という住大夫の言葉を思い出します。散文の基本は論理性です。どんなに複雑に見えても、如何に錯綜しているかに思われても、プルーストの思考回路は明晰であるはずです。そうでなければ二十世紀文学の金字塔と呼ばれるわけがありません。プルーストの場合。論理性は文脈(コンテキスト)を地道に辿ることによってしか見えてこないことがよくあります。私は腹式呼吸をして精神の安定と集中をはかり、一語一語の繋がりという基本に目を向け、素直に文章の流れを自分のなかに入れ込んで、その奥に隠れていたかに見えたコンテクストを突き止めます。》

腹式呼吸は発声の基本なのだろうが、翻訳作業の基本にもなろうとは、思いもよらなかったが、それだけ精魂傾けた高遠氏の仕事ぶりが見えるような一節である。そうでなければ「花咲く乙女たちのかげにI」冒頭のあの見事な訳文はなし得ないに違いない。

恥ずかしながら文楽はTV放送でしか見たことはないが、小生は視覚人間だけに、人形に目を取られて、というかどうもあの新しい人形が好きになれずにいる。かなり前だが、姫路の博物館に古い文楽の屋台が展示してあった。これは京や大阪で発展した人形浄瑠璃が地方へ伝播してゆき、都市部では失われてしまった古格をもつ(江戸時代の面影を残す)人形や装束がかなり後まで伝えられていた、その一例だったように記憶している。ああ、こういう人形で田舎の数奇者が農閑期に一座を組んで公演したんだろうなあと、田舎を出た人間なので、そういうものにいささかの嫌悪を覚えつつ、しかし一度演じるところを見たいなあと本心で思ったのである。また、一時期、ラジオを聴きながら絵を描いたいたときに義太夫語りに行き当たったことがあった。これが良かった。だから文楽劇場へ行こうというふうにならないところが、愚かしいところなのだが。

佐野繁次郎のことを調べていると、佐野を援助した親戚に芝川照吉がおり(これまでにこのブログでも何度か取り上げているが)、芝川の父の木谷伝次郎は浄瑠璃語りの名人と言われた五世竹本弥太夫、弟は近松研究で知られる木谷蓬吟、その妻が日本画家の木谷千種だったことを知った。木谷蓬吟が父のことを中心に浄瑠璃について書いた書物を読んでみると、幕末から明治にかけていかに義太夫語りが非常なる人気を博していたというのがよく分かった。劇場もいたるところにあり、セミプロみたいな義太夫フリークが大勢いて自前公演のために財産を傾けるということもあったようである。黄金時代というのはそういうものである。

本書のテーマはむろんタイトル通りに七世竹本住大夫がいかなる名人であり、いかようにして名人になったか、を叙述する住大夫讃歌であることは間違いないけれども、その裏返しのように随所に住大夫亡き後の文楽がどうなるのか、という危惧がくり返し語られている。大阪府や大阪市が文楽への補助金を減額したことにも触れられているし、文楽の前途が暗澹たるものであると思わざるを得ない。

《しばしば現在の太夫について手厳しい意見を綴りました。それは住大夫師がこれだけ真摯に浄瑠璃に取り組んできた事実とその重さを改めて認識することによってしか、文楽の未来はないのではないかと思われたからです。いまだし、と思ったときはそれを率直に言わないと太夫の成長はないのではないでしょうか。文楽という、日本が誇る文化を発展的に継承してゆく太夫が一人でも二人でも輩出することを心から祈っています。》

高遠氏の祈りが通じますように。と祈っているばかりでは駄目なのだが、大衆文化は変遷するのが当たり前であるとも思われるのである。

そうそう、住大夫讃歌も読み応えはあるが、いちばん気に入ったのは「野澤錦糸インタビュー」、これは失礼ながら、面白すぎる。錦糸師匠は人形浄瑠璃の三味線方、昭和三十二年生まれ。

《編集部 終わった後、くるっと回って、今日はいい演奏ができたとか、そういうふうには思われないのでしょうか。
錦糸 思わない。比較的今日は何も考えずにやれたなぐらいで。いい演奏なんて、何をもって自分の中でいい演奏なんですか。僕がそこにいて自分の三味線を聴いているわけじゃないですから、そんなのわかんない。
編集部 それはお客さん自身に決めていただくということですか。
錦糸 そりゃ、そうです。
編集部 無心に近い状態でしょうか。
錦糸 無心というのは一遍だけある。なぜか無心でやれたというのが、住大夫師匠とやらせてもらって一日だけある。そのときは気がついたら終わっていた。でも、それが結果的にいいのかどうかはわかんない。》

いいですねえ、この語りぐさ。昭和三十二年生まれ、暗澹のなかのこれは光明ではないだろうか。

もうひとつ、浄瑠璃の瑠璃は《とくに青い宝玉で、瑠璃のごとく透き通った浄らかなるその世界にはあまたの菩薩が住むと言われ、「浄瑠璃」は仏教語で、「清浄なるもの」の譬えにもなっています》と本文で説明されているが、高価なブルーの絵具にラピス・ラズリというのがあって、このラピス・ラズリが「瑠璃」だとどこかで読んだ記憶がある。もちろん小生の絵具箱にはございません。
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by sumus_co | 2013-09-11 21:54 | おすすめ本棚

昭和八年の中島敦

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春日井ひとし『昭和八年の中島敦 昭和八年・文学者のいる風景 その1』(掌山房、二〇一三年八月)を頂戴した。深謝いたします。春日井ひとし氏は『サンパン』の同人のお一人。同じく同人だった矢部登さんの『田端抄』に刺戟を受けたのかどうか、それは分かりかねるものの、やや似通った小冊子のスタイルに自らの執筆への情熱を托されておられる。

その1とあるように《昭和八年に限定しての文学者列伝の一編です。昭和八年の時点に立っての、中島敦とその周辺の様子を描こうというもので》ということでこの年、中島敦が何をしていたのか、かなり詳しく調べて列挙してある。これが大変に面白い。

中島敦は昭和八年に東京帝大の大学院に籍を置いた。森鴎外を研究テーマとする予定だったが、横浜高女への就職が決まり、国語と英語の教師となる。四月には結婚を約束した橋本タカに男子が生まれている。そして伯父の中島斗南を描いた小説「斗南先生」書き上げるのもこの年。

《伯父は狷介にして自恃厚く、峻厳でいて狂躁、父撫山の薫陶を受け幼時から俊才をうたわれたが、まとまった仕事をなさず、職に就かず、妻をめとらず、飄然と旅に出ては大陸に長く留まり、かの地の人士と交わり、国事を憂え東洋の将来を談じた。しかしついに志を得ることなく、世を罵り人を罵って許すことを知らず、周囲に鬱憤をまき散らして、三年前に七十八歳でその生を終えていた。》

本書の冒頭は、その伯父の著作『斗南存藁』(勿堂中島遺著、中島竦編、文求堂書店、一九三二年)および祖父・中島撫山『演孔堂詩文』(中島竦編、私家版、一九三一年)を、それらの編者であるもう一人の伯父・中島竦より依頼されて帝大附属図書館へ寄贈しようとするが、どうも気恥ずかしくて、持参できず、郵便で送りつける、というところから書き起されている。《大学の図書館からは一月二十三日付けの寄贈の礼状が届いた》。これに関しては以下のサイトにも日付についての言及があった。

東京大学創立130周年・総合図書館再建80周年記念特別展示会
-世界から贈られた図書を受け継いで-展示資料解説
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2007/shiryo5.html

《『中島敦全集・第一巻』の冒頭に据えられた「斗南先生」には、「自分の伯父の著書を――それも全然無名の一漢詩客に過ぎなかつた伯父の詩文集を、堂々と図書館へ持込むことについて、多少の恥づかしさを覚えないわけには行かなかつた」と、回想されている。全集の解題では、敦が寄贈したのが「昭和八年一月二十八日」だったと記してあるが、総合図書館に現存する実物に押されている日付を見ると、「一月十四日」である。》(島内景二)

中島敦の父田人(たびと)は撫山こと中島慶太郎の六男であった。撫山は幕末に日本橋の豪商の家に生まれ、亀田鵬斎の子の亀田綾瀬に学んだ。二十九の歳に私塾「演孔堂」を開塾。四十で埼玉の久喜に移住し私塾「幸魂教舎(さきたまきょうしゃ)」を開く。地域教育において功績を残し明治四十四年に歿している。七男三女があった。

斗南は志を得なかったかもしれないが、もう一人の伯父中島竦(しょう)は着実な漢学者としての実りある生涯を終えたようだ。

《同じく漢学者であっても竦伯父は落ちついた学究である。古代の漢字の研究をしながら、漢学塾で支那語と蒙古語を講じていた。白髯を二尺近くも伸ばした風貌は隠者然としているが、甥からは〈お髯の伯父〉と慕われている。それに引き替え斗南伯父の髯は黄色く染まっている。》

村山吉廣,關根茂世『玉振道人詩存』明徳出版社 2012年07月
《中国ならびに日本に於いて前人未到の学問的業績をあげながら、名利には一切かかわらぬ樸学をもって自ら任じた玉振中島竦。世事に通じ、人情を解した寧静寡欲の人品・風格が、歿後72年、簡明な評伝と新発見の詩歌で明かされる。》

竦は古代漢字の研究に先鞭をつけた人物で白川静もその業績を評価しているという。永井荷風の母恒は儒者鷲津毅堂の二女だったが、荷風以上に中島敦には漢学・儒学の血が濃く流れ込んでいたということである。いまさらながら『山月記』の秀逸な文体の遺伝子について納得してしまうのであった。

昭和八年シリーズ、その2は杉本秀太郎だとか、これは楽しみだ。
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by sumus_co | 2013-08-23 22:00 | おすすめ本棚

富士正晴と『海風』同人たち

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海文堂書店に注文していた本が届いた。店には年に何度も出向かないけれど、欲しい新刊があるときには他店では買わないで海文堂書店の店長に直接メール注文している。と言っても、それも年に数冊ていど(古本者の悪いクセで、古本になってから買おう、と思ってしまうのです)。これら二冊は閉店を知らないときに注文しておいたもの。この書皮ともサヨナラかと思うと外せなくなる。中身は読んでから紹介する(読み通せれば、の話ですが)。

『VIKING』752号(VIKING CLUB、二〇一三年八月一五日)届く。中尾務「富士正晴と『海風』同人たち 青山光二、柴野方彦との交流から」という論考が掲載されている。

富士と青山は同い年、三高の交友会誌『嶽水会雑誌』の会合で初めて会った。しかし当時は富士、野間宏、竹之内静雄の『三人』グループと青山、織田作之助、白崎礼三の『海風』のグループはあまり良い関係ではなかったらしい。『三人』の文学インテリ派と『海風』の放蕩派という肌合いの違いがあったそうだ。両方のグループと付き合った小川正巳がそのように回顧しているという。

富士と青山が親しくなるのは『白崎礼三詩集』を刊行してのこと。初顔合わせから四十年近く経っていた。

白崎礼三詩集
http://sumus.exblog.jp/10151905/

一九七一年、富士は福井県の白崎という人物が寄越した手紙をきっかけとして、若き日に面識のあった白崎礼三のことを思い出し、その詩業をなんとか世に残したいと思うようになる。そして青山に白崎の詩集がすでに出ているかどうか、問い合わせ、それを機に青山と富士が協力して、タイプ印刷でもいいから詩集としてまとめておこうという展開になるのである。

細かいことは中尾論考に譲るとして、一九七二年の初めに『白崎礼三詩集』は完成を見た。その刊行を知って連絡してきたのが、やはり『海風』の同人だった柴野方彦だった。それは七年後、「柴野方彦誄」という文章となって残されることになる。誄は「ルイ、しのびごと、死者をいたむ言葉」。

世界文学社の柴野方彦
http://sumus.exblog.jp/16095132/

驚きは、中尾論考に『白崎礼三詩集』未収録の詩一篇が引用されていること。これは高橋徹さんが発見したもので《今のところ、白崎作品中もっとも早い時期のものということになる》そうだ。さすが高橋さん。

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富士と青山はいずれ本格的な白崎詩集の刊行を期待していた。しかし

《その後も、富士、青山のふたりが切望した活版印刷の白崎詩集刊行は、ならず。現在にいたるまで、白崎礼三本は、青山、富士共編のタイプ印刷詩集あるのみ。今、この詩集は古書で手に入れるほかないが、まあ、これがめったなことではお目にかかれない。》

ということで、図書館なら閲覧できるだろうと思って探してみた。京都大学教育学部図書室、京都大学人間・環境学研究科総合人間学部図書館、公益財団法人日本近代文学館、大阪府立中之島図書館、京都府立図書館が所蔵しているようだ。そうそう、出身地である福井の県立図書館にも収めれている(おそらくいずれも富士が寄贈したものと思う)。
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by sumus_co | 2013-08-14 21:12 | おすすめ本棚