伊藤痴遊『隠れたる事実 明治裏面史』(星文館、一九二三年、装幀=岸田劉生)正続二冊ともに同日発売(五月五日)。本来なら函があるが、これは下鴨で入手した裸本。所蔵印も捺されている。このタイトルで検索すると、日本名著刊行会、日本教育会水原支局、日本教育会本部、成光館出版部、松要書店、大同出版社……と戦前だけでも少なくともこれだけの版元から出ているロングセラー。講談師だけに楽に読ませる工夫をほどこしてあり、読み出すととまらないかんじ。
続編の冒頭に児玉源太郎が出て来た。黒岩さんの『歴史のかげにグルメあり』で読んだばかり。西郷隆盛が挙兵し熊本城を攻めたときのくだり。[ ]内の藩閥はウンチク註。
《此於、熊本籠城の任に当つた、将卒の労苦は、大いに認めてやらねばならぬ、鎮台の司令長官は、陸軍少将の谷干城[土佐]であつた。参謀長は、中佐樺山資紀[薩摩]、その次席が児玉源太郎[長州]であつた。
戦陣に立つ将校には、奥保鞏[小倉]、小川又次[小倉]、大迫尚敏[薩摩]、東条英教[盛岡]、摺沢静夫、石原廬が居た。後れて駆けつけたものに、川上操六[薩摩]、乃木希典[長州]も居たが》
ここに名前が挙っている将校達の多くは日露戦争では司令官クラスになって参戦する。ただ、東条英教は命令にさからったとして引退させられ、そのことが三男・東条英機の権力志向につながったと見る向きもあるようだ。さらに乃木希典は熊本籠城のとき歩兵第14連隊(熊本鎮台)の連隊旗を薩摩軍に奪われたことを生涯の汚点としたという。
要するに、旅順要塞を陥落させた立役者たちは、西南戦争においては、立て篭る側だった。熊本城で二ヶ月もちこたえ、官軍の本隊を迎えたのである。ところでどうして西郷はこんな無謀な戦いを起こしたのか。詳しいことは分からないが、前年の明治九年に政府が旧士族から刀を取り上げ、給与をストップすると決めたことが、内乱勃発の直接的な引き金になったようである。結局は、金の問題だ。