同じく水明洞で求めた表紙も奥付もない絵本。前回とは別のもの。児童書には暗いので、何時頃のどこの刊行物なのか見当もつかない。本田庄太郎、一木弴(イチキ・トン)、フルヤ・シン(古家新)、タムラ・カウノスケ(田村孝之介)、初山シゲル(滋)、ナラ・オトゾウ(奈良音三)、樋口富麻呂、宮崎正博、竹久夢二、そして上の絵がタカヲカ・トクタロ(高岡徳太郎)。大阪の画家が多いから大阪の版元だろうか。
高岡徳太郎は一九〇二年堺市生まれ。十三歳で松原三五郎の天彩学舎に学び、上京して本郷洋画研究所に入り岡田三郎助に師事。一九二三年高島屋宣伝部に入社。一九二四年に大阪に帰り信濃橋洋画研究所に入所、小出楢重らに学ぶ。二科に出品し二科賞。一九三四〜五年に渡仏。三六年に二科会員。一九五四年
ノバ・マネキンを設立。二科を離れて五五年に鈴木信太郎らと一陽会を創立した。一九九一年歿。先日話題にした高島屋包装紙のバラを描いたのが高岡である。
装幀を手がけた書物としては、獅子文六『達磨町七番地』(白水社、一九三七年)、同『胡椒息子』(新潮社、一九四三年)、『獅子文六全集』(朝日新聞社、一九六九年)、武田麟太郎『大凶の籤』(改造社、一九三九年)、『鈴木花蓑句集』(笛発行所、一九四七年)、『世界童話集』(家の光協会、一九四八年)など。
ちなみに夢二はこんな絵柄。この詩「ヒルネ」の作者・氏川修一はまったくヒットしない。ペンネームか。
(少々見苦しいですが、うまく間をつなげられないのです)
なお夢二は昭和六年五月に渡米した。ヨーロッパを巡って昭和八年九月に帰国、その後、体調を崩して病伏し、九年九月一日に歿した。ということは昭和六年の初め以前の仕事なのだろうか(?)。
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本日は大工仕事を少々。六月に神戸で個展があるが(詳細は後日)、その準備のさらに下準備。その最中に右手薬指の先に軽い切りキズをつくってしまった。すると、なんとキーボードのたたきにくいことよ。「イテテ」と言いながら入力している。
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「Nさんのオックスフォード便り」はカテゴリー欄にまとめました。日録でアップして、順次移して行きます。また催し案内「もよおしいろいろ」、佐野資料も同様ですので、随時チェックしていただきたいと思います。