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大大阪イメージ』の紹介で問題にした"De Stadt OSACCO"だが、橋爪氏が大きな画像を送ってくださったのでアップしておく。たしかに「Stadt」と書いてあるように見える。現代オランダ語とはやはり違っていたのだろう。
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黒岩比佐子さんの『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書、二〇〇七年)を読み始めた。紹介は全部読んでからにしよう。編集者としての独歩はグラフ雑誌の先駆者だったようだ。独歩と言われて、その作品をあまり読んでいないことに気づく。下は青山二郎装幀になる『欺かざるの記』(北斗書院、一九四六年)。
これは独歩の日記というか覚え書きである。臨終のときに徳富蘇峰が目にとめて出版されることになったという。例えば明治二十八年十一月の記述。激しく反対された結婚がようやくなんとかまとまった。
《十一日
午後七時信子嬢と結婚す。
[略]
植村正久氏の司式の下に、徳富君の媒介の下に、竹越与三郎君の保証の下に、潮田ちせ老婦の世話の下に、吾が宅に於て、父及弟列席の上、目出度く結婚の式を挙げたり。》
植村正久は麹町一番町教会の著名な牧師、竹越は国民新聞記者でのちに歴史家・政治家となる。ハッピー感あふれる記事だが、それが五ヶ月後、翌二十九年四月にはこういう結末を迎える。
《十四日。
一昨日信子の失踪以来、吾が苦悶痛心殆んど絶頂に達せり。信子失踪行衞未だ知れず。為に我が苦痛我が筆の尽し得る所に非ず。》
信子が独歩の元にもどってくることはなかった。ちなみに独歩は生誕に謎があり誕生日もはっきりしない。けっこう女好きで喧嘩早かったようだ。本名は哲夫である……。