土曜日のプラトン社についてのトークが終わって一息つく。(島様ご苦労さまでした)。次は5月26日(土)に海文堂書店で予定している『spin』創刊記念トークショー(鈴木創士氏、中島俊郎氏との鼎談形式)まで催し物はない。そこで、まだ引越先も確定していないのに(目星はつけているが)、ナベツマにせっつかれて荷造りを始める。
まずは二階三畳の文庫・新書を段ボールに収納する事から。恵文社でそうとう処分したと思ったが、まだまだある。大小とりまぜて十一箱になった。片付けしていると、忘れていた本がつぎつぎと目に入ってくるので困ってしまう。そんななかで引きつけられたのは、内田百閒が住んでいた家の間取りである。平山三郎編『回想の百鬼園先生』(旺文社文庫、一九八六年)収録の中村武志「鬼苑方丈記」に中村の手書き図面が載っていた。上図。
内田百閒ファンサイト「門の中」の年代記によれば百閒が上図の合羽坂(市ヶ谷中之町九番地左藤こひ方)に転居したのは昭和四年である。昭和十二年に麹町区土手三番町へ転居するまでの八年間、四十から四十八歳にかけてここに住み、母と長男を亡くし、三女を養子に出している。傑作『百鬼園随筆』(三笠書房、昭和八年)を刊行し、法政大学を辞職して文筆で立った(昭和九年)のもこの家だった。
三笠書房の処女出版『ドストイエフスキイ研究』(アンドレ・ジイド著、竹内道之助訳、昭和八年十一月十日)の次に出したのが『百鬼園随筆』(昭和八年十二月十日)のようである。こは竹内道之助の大手柄のひとつに数えられよう。
それにしても、この間取りで、最多七人(本人・妻・母・子四)が暮らせるわけもなく、「頂上のあたりにもう一軒あり」(上図ではカット)という書き込みからして別棟があったのだろうと推察される。朔日と十五日の面会日にはこの図の四畳半の間に八人も集まったというから驚きだ。しかも小鳥五十羽をそこで飼っていた(!)。
百閒は歿したのは昭和四十六年四月二十日。享年八十二。中村によれば《さすがに錬金術の大家でもあった。返済しない借金は一つもなかった。その代り、残したお金は、受話器の下の千円札数枚であった》とか。
三鞭酒の泡のごとくに百閒忌