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スペクタクルの社会ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』(木下誠訳、ちくま学芸文庫、二〇一〇年四刷)読了。オザンヌ書店の目録でオリジナルの図版を見て興味をもった。海文堂書店に注文して入手したもの。 ギー・ドゥボール http://sumus.exblog.jp/20720111/ ギャラリー島田でこの『スペクタクルの社会』を読んでいたら「林さん、シチュアシオニストですか?」と声をかけられた。「え? まさか違いますよ」と答えてはみたもののシチュアシオニストって何?というのが心の声だった(まだ途中までしか読んでいなかった。ただし、こういう問いかけに対しては常に否定で答えるべし。本書の解説まで読んで納得)。 「スペクタクルの社会」は社会はスペクタクル(見世物)だという、いかにも映画から出発したドゥボールらしい理論(というほどのものでもない、世界解釈とでもいうべきか)。一九六八年の五月革命に影響を与えたと言われているが、この内容で影響が与えられたのなら、よほど当時の学生や労働者は鬱積したものがあったとしか思えない。 文明論としてはいいところ衝いている。しかし運動となるには尖りすぎだろう。ドゥボールの基本的な考え方は「分離」である。スクリーンの前の観客たちに横のつながりがないように、現代社会に生きる個人はスペクタクルに目をくらまされ本当の生から分離(個別に疎外)されている。それにより権力は社会を容易に操作することが出来る。まさか世の中そんなに単純じゃないだろうが、ある種の先見性と言うべきかどうか、たしかに五十年前の世界よりも現在の世界に対しての方がよりいっそうぴったり当てはまる指摘もある。 《近代的産業にもとづく社会がスペクタクル的であるのは、偶然でもなければ、表面的なことでもない。そうした社会は本質的にスペクタクル主義的なのである。支配的経済のイメージであるスペクタクルにおいて、目的は無であり、発展こそすべてである。スペクタクルがなろうとしめざしているものは、己れ自身以外の何ものでもない。》 ドゥボール(一九九四年に自死)がスマホに支配されている現代人を見たなら、それみたことかオレの言った通りになっているとうそぶきそうだ。 《スペクタクルにおいて、世界の一部がこの世界の前で演じられ[=代理-表象され(se représente)]、しかもそれはこの世界よりも優れたものなのである。スペクタクルとは、この分離の共通言語にほかならない。観客どうしを結びつけるものは、彼らを孤立状態に保つ中心自体に対する彼らの不可逆的な関係だけである。スペクタクルは分離されたものを一つに結び合わせるが、分離されたままのものとして結び合わせるのである。》 《観客が凝視すればするほど、観客の生は貧しくなり、観客の欲求を表す支配的なイメージのなかに観客が己の姿を認めることを受け容れれば受け入れるほど、観客は自分自身の実在と自分自身の欲望がますます理解できなくなる。活動的な人間に対するスペクタクルの外在性は、客観の身振りがもはや彼自身のものではなく、自分に代わってそれを行っている誰か他人のものであるというところに現れてくる。それゆえ、観客はわが家にいながらどこにもいないような感覚を覚える。というのも、スペクタクルはいたるところにあるからである。》 ネット、スマホ社会にこそこれらの指摘はよりいっそう似つかわしい。ただ、ではそれをどうするのか、ということになると、まったく弱い。弱いというよりもドゥボールの説くプロレタリアートによる革命というものがスペクタクル社会のなかでそのまま自縄自縛に陥ってしまうのである。 シチュアシオニスト、これは以上のような状況を脱すべく実践活動を行う活動家の意味である。転用[détourment、方向を変える]という言葉がキーワードになる。ただしかし、この実践活動はある意味で文化的テロ、その昔ダダイストやシュルレアリストが行ったことと似通った(当人たちは否定するだろうが)かなり子供じみた行為である(例えば落書きだとか)。しかも仲間割れがひどい。除名のオンパレード。 結局彼らは最後には自らの理論で自らを終わらせることになる、というか、スペクタクルではない世界というものはしょせんこの世では成り立たないのである。映画を否定して映画を撮ることができないのと同じである。映画でないなら映画じゃないし、映画なら映画を否定できない。ジレンマ。 《七〇年に入ると、SI[シチュアシオニスト・インタナショナル]内外での行動の欠如と観念論的議論の沸騰が著しくなり、SIはこれに抗して、沈黙という武器で闘い、さらに、もはやSIの理論の普及の役割を果たさなくなった機関誌の刊行を中止した。》 《ドゥボールらはSIが「最後の形態の革命スペクタクル」とならないように、SIを破壊する闘争を開始する。》 自壊して終わるように運命づけられていた。
by sumus_co
| 2013-10-15 20:59
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