宇佐見英治『夢の口』(湯川書房、一九八〇年四月一五日)。湯川書房の在庫を預かっておられた方より段ボール一箱まとめて頂戴した。ギャラリー島田に送られて来た。個展会場に来られた方でご希望の方に頒けてください、ということである。有り難い。小生が画廊にいる時に声をかけてくだされば呈上します。
これも洲之内徹と宇佐見英治がどちらがどうかという問答から飛び出た駒のようなものである。『季刊湯川』連載の四篇はここにまず収録された。他には「コスモスの顔」「樹と岩」「死者の書」(『同時代』)、「多生の旅 一、二」(『世界』)、「夢の口」(『白井晟一研究』)。
やはりどう読んでも洲之内徹の上を行くとはどうしても思えない。ただし初めて読んだときよりも宇佐見の文章や考え方に馴れてきた。二者を単純に比較しても始まらないと納得できるようになった。ただ例えば「多生の旅」のこんな表現にはどう反応していいか分らないというのが正直なところ。
《美は存在の裂傷である。本郷隆ほどその痛みを肌身に感じていた人はない。私はいまこれらの言葉を書き抄(うつ)しながら「光は悲劇だ」といったルオーの言葉を思い出す。》
納得するのは引用されているジャコメッティが生涯の最後に吐いたという言葉。
《そんなものはみな大したことでない。
絵画も、彫刻も、デッサンも、
文章、はたまた文学も、そんなものはみな
それぞれ意味があっても
それ以上のものでない。
試みること、それが一切だ。
おお、何たる不思議のわざか。》
「おお、何たる不思議のわざか」は余計のように思うが、とにかく「そんなものはみな大したことでない」。
本の造りはノドの開きもいいし、活字や組版、表紙の布の手触りもいい。ただひとつ、函が窮屈で本体を引き出すのに一苦労する。グラシン紙が破れてしまう。函入りの本にはたまさかにあることながら、これはとくにキツい。どうしたことか。惜しい。