ギャラリー島田より毎月送られてくる『Gallery SHIMADA & Art Support Center Kobe INFORMATION』十月号に島田誠さんが「海文堂書店の閉店に思う」という文章を書いておられる。これは神戸新聞が九月に三回にわたって掲載した「
【海よ、さらば 元町・海文堂書店の99年】愛情と敬意」という記事が、いたって不満足な内容であったため、それを補うという趣旨だそうだ。海文堂書店の歴史についてはいずれ詳しい記録が刊行されるとも書かれているが、ここでは島田さんの記述から主な事柄を抜き出しておくことにする。
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海文堂創業者・岡田一雄は島田氏の妻・悦子さんの父親。島田さんが三菱重工に勤めていた時、岡田氏が重篤な病で亡くなる直前、書店を継ぐように頼まれ、サラリーマンを捨てて書店の世界に足を踏み入れた。一九七三年のことである。
当時は現在の店の西半分が二階建ての木造店舗、東半分が空き店舗(以前は三好野という海文堂が経営する食堂)だった。一九七六年、空き店舗を書店として改造。一〇〇坪となる。児童書、雑誌、学習参考書を充実させた。島田氏が児童書を担当。宮崎豊子(児童文学研究家)さんが選書し、読書相談、こどもの育児教育相談コーナーなどを作った。これが現在の田中智美さんが率いる児童書コーナーへとつながった。
一九八〇〜八一年、西側の店舗の老朽化のため全面改築。仮店舗営業ながらポートピア博覧会のガイドブック販売でしのぐ。二五〇坪を九ゾーンに分けてそれぞれを専門店の集合とし、ゾーンごとにデスクと人を置き棚作りを任せた。
元町三丁目まで集客するためギャラリーを開設、マリーングッズ、子供の教育玩具(スウェーデン製)を販売。文化発信拠点を目指した。書店はグループの一員ながら独立経営だったため家賃を支払っていた。
創世記の大番頭・清水晏禎(よしやす)、前店長・小林良宣(よしのぶ)
『海会』に先だって小林店長時代の通信に『読書アラカルテ』、他に『読書手帖』『神戸ブックマップ』『ヴァイキングの乗船者たち』『神戸古書店地図』『郷土史一覧』などを刊行してきた。
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以上のようなことが神戸新聞の記事に欠落しているというのが島田さんの言い分である。島田さんに取材がなかったのだから仕方がない。なぜ取材がなかったのか、これはここで簡単に論評できないけれども、なかったのだから推して知るべしであろう。【同紙10月1日付でほぼ上記の内容の記事が掲載されました】
上の写真は店舗東側の壁を元町通から撮影したもの。右手奥に通用口がある。
なお、この通信には拙作個展の案内も掲載されている。そこに三百文字ほどの紹介文を書いたが、《1973年、上京して武蔵美に入学した》とあるのはうっかりミス。一九七四年の間違い。ちょうど四十年と思いこんでいた。ここで訂正しておきます。