秋山六郎兵衛の原稿「山茶花」、コクヨの四百字詰め原稿用紙二枚、ちょうど二十行分の原稿である。これだけで完結しているとすれば、アンケートか何かの回答であろうか。文中に山茶花の花が好きだとあるので、平たく考えれば「好きな花」についてという質問、あるいは「初冬」という出題だったかもしれない。
秋山についてはほとんど意識していなかった。その理由としてドイツ文学をさほど読んでいないということがひとつある。ところが勝手なもので香川県三豊郡下高瀬村(現 三豊市三野町)出身と知ったら、急に興味が湧いて来たのである。下高瀬はJR予讃線の三野(みの)駅付近になるようだ。
一九〇〇年生まれ。旧制三豊中学から旧制第一高等学校、東京帝国大学文学部独文科卒業という秀才コースをたどり、東大では三歳年下の手塚富雄と第八次、第九次『新思潮』に参加。旧制福岡高等学校へ赴任して同人誌『九州文壇』や『九州文学』創刊に参加している。戦後は九州大学、中央大学、学習院大学で教鞭を執った。著作は以下の通り。初め小説家を目指していたようだ。
『薄明』考へ方研究社、1928年
『受験病患者』考へ方研究社、1930年
『概観ドイツ史』白水社、1938年
『魔園』白水社、1939年
『故園』三笠書房、1940年
『現代と文学精神』三笠書房、1941年
『白刃の想念』明光堂、1943年
『回想と自覚』輝文堂、1943年
『独逸文学史』三笠書房、1943年
『文学と真実』晃文社、1948年
ヘッセ、ホフマン、ハウプトマン、ゲーテ、グリーゼなどの翻訳書がある。
第一芸文社から出た『福岡県人篇』(一九四四年)は秋山編のようだ。
「山茶花」はさらりと書かれている素直な作文である。ただ、読者としては何かもうひとひねり欲しい気がしないでもない。後半の九行分を引用しておく。
《わたしの生家は、讃岐の西部の、瀬戸内海にほど近い農村であるが、その庭にも山茶花が幾本かあつて、毎年初冬になると、白い花をあかるい陽を一杯にうけて開くのである。わたしは中学を出て上京して以来、生家へは春と夏の休み以外には帰らないので、そんな風景をながめる機会はないが、いまでも目をとぢると、そんな山茶花の白い花が眼前にほうふつとしてくるのである。》