マルタ・モラッツォーニ『ターバンを巻いた娘』(千種堅訳、文藝春秋、一九八九年二月二〇日、装幀=中島かほる)読了。原題は『La ragazza col turbante』( Longanesi, 1986)でマルタの処女短編集である。イタリア語や歴史を教える教師だったが、演劇に興味をもって劇評を書き、プルーストなどの作家論もものしている。創作意欲の起こるままに一年一作のペースで短篇を書き上げ、一九八三年に批評家のピエトロ・チターティへ送った(本書に収録の前半三篇で「ターバンを巻いた娘」を含む)。チターティはこれらの作品にすっかり感心してロンガネージ社から出版されることになり、世界各国語に翻訳される出世作ともなった。
《身ごもった妻を残して、ハーグの商人ベルンハルト・ファン・リイクは海へでてゆく。まだ会ったことのない得意先のデンマーク貴族ヘアフールエの城に、一点の絵をとどけるためである。》
《何日もの航海のあと商人は城に着く。はじめて会う年老いた貴族は、一人の若い娘と一匹の大きな犬といっしょに暮らしている。海に近い、謎(なぞ)めいた不安のたちこめる広大な領地。静かだ。何も起こらない。若い娘とのつかのまの対話のなかで、何かが起こりそうな気配がふときざすが、それも影のように過ぎてしまう。一切がすでに起こってしまったので、もう時間のなかで起こることはなにもない。すべて時間のなかで起こることは、青いターバンの娘の絵のなかの、あの時間の彼方の世界にひそやかに引き取られてゆく。》
……とこれは本書に挟まれていた新聞切り抜きより(掲載新聞紙は不明)。「"時間の彼方"の物語」と題された種村季弘による本書の書評である。
《生(なま)の時間がことごとく物語の音楽的無時間に転位されてゆく一方で、ほとんど意味というほどの意味のない物語のテクスチュアからは、時間のなかで起こり得るおびただしい出来事が想像を通じて生成してくる。》
たしかに種村の言う通りで間違いはないと思うが、小説としては描写力が弱く、妄想を紡いでゆくような感じであって、そういう意味ではマルタがプルーストに興味をもつのは分かるような気がする。フェルメールもプルーストの小説を通して知ったそうだ。だから絵についての蘊蓄などは一切出てこない。それは潔くて小説としては何の問題もない、というかレトリックの一種として成功している。
人間が描けているか、というとそれも型通りであろう。背景も人間も描けていないのに、なぜか、かえって、面白味のようなもの(ようなものであって、いわゆる面白さではない)が宿っている。そこが作者のもっともユニークな着想だろう。筋立ては、モーツァルトやカール五世の周辺を描いていかにも時代劇映画に向いていそうなのだが、そのストーリー展開への期待をことごとく裏切って物語は進む、物語が進むというより時間が進む。アンチ小説と言ってもいいだろう。むろん歴史読物やエッセイ風ではない。不思議な味の作品群である。千種堅の翻訳が手堅い。