林蘊蓄斎の文画な日々
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地を這う虫

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高村薫『地を這う虫』(文藝春秋、一九九三年一二月一日)。直木賞系の作品はほとんど読むことはないのだが、というのはカッコつけているわけではなく、面白すぎて止まらなくなるのがシャクなので、マンガも同様の理由から最近はほとんど読んでいない(最後に読んだのは荒川弘『銀の匙』かな……この七月からTVアニメ放映らしい)。

吉村昭が例外(と言っても直木賞はとっていない)ながら『戦艦武蔵』『逃亡』『破獄』と読んで、やはり止まらなくなりそうなので自粛中。高村薫も(本名は林さん、国際基督教大で仏文専攻だったというのに共感を覚えました)あまりに有名なので敬遠していたのだが、今回たまたま本が出て来たので読んでみることにした。『地を這う虫』は高村初めての短編集。同名でTVドラマ化もされている。

うん、なかなかよく書けている(えらそうに)。ヤメ検ならぬヤメ刑事を主人公にした四作(一九九二〜三年『オール讀物』)と退職直前の刑事の話(九三年『別冊文藝春秋』)の五編が収められている。最後の退職刑事の話がいちばんつまらない。面白いのは表題作「地を這う虫」、これは刑事を辞めて警備員をしている男が町内で連続した不思議な空き巣事件を解決(? どの作品もいちおう解決はするが、後味が悪い、巨悪は眠る、のが特徴である)するという筋立て。ただ謎解きよりも主人公のマニアックな性癖の描写が秀逸で読ませる。ある意味、古書コレクターに通じる丹念さが描かれている。

《省三は軍手を外した手で、いつもポケットに入れている小さな手帳を取り出した。それは完全に習慣の一部となった、素早くなめらかな動作だった。手帳は、そうして四六時中出し入れされているせいで、ボロボロになっている。省三はそれに一行、『ゲジゲジを見た』と書きつけた。》

これは冒頭に登場する手帳の描写である。この手帳がどんどん大きな意味を持ってくる。

《自分の手帳の縦横のサイズを定規で測り、それに合わせて、色とりどりの印で埋まった一枚の地図を折ってみた。我ながら慣れた手つきだとおかしくなった。折り畳みの地図のように、蛇腹式に開くような折り方をして、その一辺を手帳にセロテープで張りつけると、うまく手帳の中に収納出来た。手帳を開くと、地図が出てくる。》

ところが、クライマックスの暗闇でこの手帳を失くしてしまうのだ。

《省三は手帳の地図を取り出そうとポケットを探り、手を次々に別のポケットに突っ込み直した。手帳はなかった。》

《諦めきれなかった。持ち去られたのは、自分の人生の中身だ。心の庭に植えて、ひとりで育ててきた木だったのだ。》

手帳はどうなったか、まあ、それはご自分でお読みください。で、次に面白いのは「巡り逢う人びと」。元刑事は金融会社に勤め非合法スレスレの取り立てを容認している、あるとき取り立て屋が若者を突き飛ばして重体にしてしまったのだが…。次が「愁訴の花」、刑事が妻を殺した、その裏に警察と闇社会の癒着を抱え込んできた苦悩があった…、よく出来てはいるが、出来過ぎの感じ。そして「父が来た道」、大物政治家の運転手になった元第二課刑事(経済犯罪、企業犯罪を扱う)の生活と心中を描く。これは何が言いたいのか、いまひとつくっきりとしてこない。長編の序章といったおもむき。

《こうして結局何の手出しも出来ないまま、自分はひとり深夜零時を迎えるのかと思うと、和郎はまた諦めの境地に陥りかけた。このまま、本部に帰って当直に手帳などを返し、詫状一枚書いて出ていっても、世界はぴくりとも動かないだろうに。》

凡庸だと言った退職刑事の話「去りゆく日に」(タイトルからしてちょっとどうかな)から。この《ぴくりとも動かない》(あるいは何事もなく動き続けると言うべきか)世界に無力なしかしマニアックな男が一石を投じる、これが本書の諸作に通底したテーマのようだ。その典型が表題作「地を這う虫」の最後のシーン。妻と喫茶店で待ち合わせる主人公。ケーキを食べようとした妻は「きゃ!」と悲鳴を上げる。スカートの膝のあたりを蟻が這っていた(どこのおばさんが蟻で悲鳴をあげるかなあ?)。妻は床に落ちた蟻を踏みつぶそうとするが、主人公はそれを制止する。

《「踏み潰さないでくれ」
 蟻は右へ左へうろうろとしながら、黙々とコンクリートの床を歩き続けていた。
「加代子。この虫はな、俺なんだ……」
「どういうこと」
「……なに。ただ歩いているのさ」》

コンクリートの床の喫茶店があったのはいつの時代なのかと、ちょっと設定を疑いたくなるところもあるが、要するにこういうことであろう。
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by sumus_co | 2013-06-12 04:20 | 古書日録
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