林蘊蓄斎の文画な日々
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どん底

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ゴォリキイ(カバーではゴオリキーだが、扉ではゴォリキイ)『どん底』(松本苦味訳、如山堂書店、一九一六年六月一八日)を均一で手に入れた。松本苦味およびこの本に先立つパンテオン叢書『どん底』(金桜堂書店、一九一四年)については古本夜話249を参照していただくとして詳細は省く。

国会図書館のデジタル化されたパンテオン叢書『どん底』を閲覧しながら比較してみると、まず扉の図案が変っている。そして、小山内薫から提供されたという舞台写真四葉が、本書では口絵として巻頭にまとめられているのに対してパンテオン叢書では各幕ごとに別々に配されているのが目立つ。登場人物の紹介文も本書では口絵の裏に別刷で貼付けてある。いろいろ改変はあるものの、第一幕の冒頭は本文五頁目にあり、同じ紙型を使っていることは明らかのように思われる。

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小山内薫と『どん底』についてはたしか河盛好蔵『藤村のパリ』(新潮文庫、二〇〇〇年)に書かれていたと思って開いてみると、松本克平『日本演劇史』(筑摩書房、一九六六年)が引用されていた。大正元年十二月末にモスコオに到着した小山内は憧れの芸術座の舞台を目の当たりにした。

《二十三日間の滞在期間に十三回、通った。俳優スタニスラフスキーを出来るだけ多く舞台で見ることと、演出を克明に学ぶためであった。旅日記には、「舞台監督として出来るだけ多く、舞台のうしろで見よう」としか書いてないが、この時『どん底』その他の詳細克明な記録をノートにとっていたのだった。これが帰国後整理されて自由劇場再演の『どん底』の手がかりにされ、また築地時代に「小山内おやじの虎の巻」と言われたものであるが、》

この後、小山内は六月にパリに到着、九日ほど滞在した。その間、藤村とともにオペラ座、シャンゼリゼー劇場、シャトレ座などで観劇し、そのまま帰国の途についている。松本苦味に提供された舞台写真は当時としては最新の情報だったと言えるだろう。

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小生、舞台にはまったく詳しくないため、この陰惨なモスクワ芸術座の舞台写真を見て思い出すのは黒澤明の「どん底」でしかない。ストーリーもよく分らない、とにかく昏くてじめじめした映画だった。おそらく黒澤の脳内にはこの写真のようなイメージが渦巻いていたに違いないと、今この口絵を見て思い当たった次第である。

本書の翻訳はなかなかの名調子。江戸の戯作か明治の講談か落語のような猥雑さである。もちろんロシアのシチュエーションを日本に置き換えるとこうなってしかるべきなのだが(黒澤の映画が日本の長屋になっていたように)……今読むと多少違和感がないでもない。最後の一頁ほど引き写してみる。

《韃靼人。(笑ひながら。)えゝこのブー公のへちやもくれ奴が…構はねえ、酒持つて来う! 斯うなつたらもう飲めや謡へやだ。死ぬ時が来たら斃(くたば)るまでだい!
ブブノーフ。サチン、注いでやれ! まゾーブ、座れよ! 何うでえみんなア! 人間嬉しくなるにやアたんと入らねえもんだなあ? 己様は、飲んだらうもうそれでご機嫌だぜ! こうゾーブ!…謡つてくれ…己の好きな歌をよ! 己は謡つて…そして泣くんだ……
ゾーブ。(謡ひ始む。)
    『日は昇り、日は沈む…』
ブブノーフ。(後に従ひ。)
    『闇は獄屋(ひとや)を訪れぬ!』
    (この刹那、戸は俄かに開かる。)
男爵。(閾の上に立ちて叫ぶ。)おい…み…みんなア! こつちへ来て見ろ! 空地で…役者が…首を縊つたぞ!
   (沈黙。皆々男爵をば凝つと見る。と、彼の肩後よりナースチヤ顕れ、静かに眼を見張りつゝ卓の側に近付く。)
サチン。(低声に。)えゝこのあんぽんたん奴! 大事(でえじ)の歌の腰を折つてしまやがつた!……
  ○幕。》
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by sumus_co | 2013-05-20 21:07 | 古書日録
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