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阿佐ヶ谷ビンボー物語

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阿佐ヶ谷にお住まいの方よりうさぎやのお菓子を頂戴した。深謝です。この店はなつかしい。一九七八年から七九年にかけて阿佐谷南に住んでいたからだ。うさぎ饅頭などをちょくちょく買っていた。

阿佐ヶ谷時代については「阿佐ヶ谷ビンボー物語」として『古本屋を怒らせる方法』(白水社、二〇〇七年)にわりと詳しく書いたので参照していただきたいが、参考までに一部を引用しておく。

《 じつは一九七八年から九年にかけて阿佐ヶ谷に住んでいた。阿佐ヶ谷駅から東南方にある馬橋稲荷神社のすぐそばのアパートで管理人をしていたのだ。木造の小さなアパートだった。全部で何室だったかも、もうはっきり思い出せないが、たしか一階に五部屋、二階に五部屋あったような気もする。あるいは四部屋四部屋だったか。われわれは、というのは妻と幼い息子だが、一階の六畳一間を使っていた。後には隣の三畳間も使うようになるけれど、明らかに、独身者用のアパートなので台所も一口コンロが一台置けるだけのスペースしかなかった。》

《 『別冊アングル・街と地図の大特集』(主婦と生活社、一九八〇年八月)という重宝な雑誌が手元にある。これは詳細なタウンマップを売り物にした雑誌『月刊アングル』が東京の首都圏をひとまとめに特集掲載したもので、中央線沿線では高円寺、阿佐谷、荻窪、西荻窪、八王子が紹介されている。ここにまさしくわれわれが暮らした当時の阿佐谷の商店地図が載っているのだ。よく通ったねじめ民芸店(ねじめ正一氏もときおり見かけた)やスーパーのピーコックが懐かしい。ネギシ読書会本店では妻が毎週のように雑誌類を借りていた。》

こちらがその『別冊アングル・街と地図の大特集』の阿佐ヶ谷地図。うさぎやさんは阿佐ヶ谷駅の東北側の道沿い。画面右上中ほど。

b0081843_20173875.jpg

《 われわれが管理人をしていたアパートの大家さんはサラリーマンだった。誰でも名前くらいは知っている大会社に勤めており、自宅は千葉県なので、ウィークデイはアパートの三畳部屋に泊まり込むことが多かった。痩せて浅黒く、腰が低くて言葉遣いも丁寧、たいていいつも笑顔を絶やさないのではあるが、表情は決して晴れ晴れとはしていなかったように思う。にこやかさのその奧に何かどんよりとしたものを感じさせた。
 彼は会社から帰ってくると、いつも仏像を磨いていた。仏像といっても、宗教心からではなく骨董趣味から出た愛玩のようであって、こちらが美術大学を出たばかりだということから何度か招き入れた。
「はやしさん、ちょっとこれみてください」
 昼休みにどこやらの骨董屋で値切って購入してきたらしいその仏像、ちょうどトイレットペーパーの芯くらいの大きさの、磁器でできた白い観音像を示すのである。
「中国のものですよ、これ。いいでしょ」
 買ったときにはすすけて汚かった。それを薄めた漂白剤にしばらく漬けておき、使い古しの歯ブラシでもって、ひだの間や釉薬のかかっていないところをそっとこすって汚れを取り除け、本来の白磁が持つ光沢を取り戻したのだそうである。
 サラリーはそこそこもらっていたのだろうが、自宅マンションもあり、大学生の子供が二人いて、ボロだとはいえアパートも所有しているから、そうとう倹約してきたのではないかと想像された。ポケットマネーは少なく、やりくりはたいへんだったのかもしれない。だからかどうか、大家さんの見せてくれる骨董らしき品々も、そうたいそうなものでは決してなく、小さな器などをごく安い値段で自称「掘り出しもの」としてハントしてくるのであって、それを眺めたりいじったりしているときが、彼にとって唯一の、今時の言葉で言えば、癒される時間だったようである。三畳だと思ったが、よく考えると二畳くらいだったかもしれない、その細長い部屋に小さな机を置いて、真っ白な観音像を載せてある。帰宅してからずっとそれをためつすがめつしている中年男性は、のんきな絵描きにとっても、まったく不思議な存在であった。
 アパートの住人についてはあまり記憶が定かではない。ただ、二階の四畳半に五十過ぎ、あるいは四十代だったかもしれないが、一人暮らしの男性がいた。言葉のなまりがぬけておらず、福島あたりの出のようにも思われた。たいへんつつましく暮らしていた。廊下の電気代などを共用費として部屋代とは別に集めるのだが、一度その計算を間違ったことがあって、数十円の違いを鋭く指摘したのはそのおじさんだけだった(おじさんといっても、現在の私よりきっと若かったのだ)。
 他には学生や独身女性もいたと思う。一階の奧の部屋に若い男性と年上の女性が同棲していた。よく口喧嘩する声が聞こえてきた。あるとき、男性のお兄さんがやってきて、「引っ越します」といって、さっさと部屋を引き払ってしまった。それからしばらくして一緒に暮らしていた女性が訪ねてきて、男性の引っ越し先を教えてくれという。知らないから知らないと答えたが、その後も何遍かやってきた。
 そうそう、南側に細長い庭があった。幅は五十センチほどか、家が建て込んでいるので、ほとんど日照はないに等しく、しかも地面はコンクリート張りで、ちょっとした鉢物も長くはもたないのではあるが、それでも日陰を好むシダのような緑が少しは繁っていた。
 ある日、気づくと、庭の中程に直径十五センチほどもある石が置いてあった。と思ってよく見たら、それは蛙なのだった。上述したように馬橋のあたりは湿地帯だったそうだから、案外と水脈が近くを走っているのかもしれなかった。ときおりゴロゴロと思いだしたように鳴く。次の日に見るといなくなっていた。が、じつは隅っこの方へ移動していただけだった。そんなふうに、眺めている間は微動だにしないようでも、けっこうあちらこちら狭い庭を匍匐していたらしい蛙は自然とアパートの住人のようになってしまったのだが、いつしか本当に姿が見えなくなった。
 近所には肉屋と豆腐屋があるくらいで、マーケットは駅の北側の西友か商店街のピーコックまで十分ほども歩かなければならなかった。その肉屋の隣のちょっと立派なアパートにKCというコメディアンが住んでいた。というか、じつは愛人を囲っているという噂だった。一、二度KCの姿を見かけたが、テレビから受ける印象よりもかなり体格が良かった。
 あるキリスト教系グループの勧誘人がひんぱんに回ってきた。おばさん二人組が毎週決まった日に戸を叩く。まあ、こちらも一日中アパートでごろごろしているわけだから、話ぐらいはきいてやろうかな、という気になって、しばらく聖書の講義を受けていた。テキストはまったくアメリカ本部の出版物を翻訳したようなちゃちっぽいものだったが、聖書の解釈学のほんのさわりだけをなぞったような知識をもたらしてくれた。聖書には地獄という記述はない、ゲヘナと書かれているだけだ、などというのは今も記憶に残っている。だが入信しようなどという気持ちがヒトカケラとてあるわけではない。根っからの無神論者なのだ。そのうちおばさんたちも、ここで熱弁を奮っていても時間の無駄のようだな、と感じ始めているのが分かっておもしろかった。信心どころか、その前に住んでいた小平の一軒家から風呂桶だけをアパートに持ってきていたのだが、むろんアパートには風呂場がないのだから、入居以来、無用の長物として物置スペースに置きっぱなしとなっていた。それを、おばさんの一人に引き取ってもらった。ムリヤリ押しつけたと言った方が正しいかも知れない。その頃は、ガスの風呂沸かしバーナーだけを設置して風呂桶(プラスティック製)のない借家というのがあったわけである。》

これで三分の一くらいの引用になる。久し振りで読み返すと、忘れていた細部がまざまざと蘇ってくる。全文お読みになりたい方はぜひ白水社までご注文を。まだ在庫しているようです。

白水社ホームページ
http://www.hakusuisha.co.jp
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by sumus_co | 2013-02-05 20:31 | 古書日録
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