柿衞文庫の創始者である岡田柿衞(1892-1982)の没後三十年記念展を見る。久し振りに伊丹へ行った。美術館の周辺は震災の後すっかり変ってしまった。それ以前にはかつて繁栄した地方都市の情緒を色濃く残していたが、今は街全体がほとんどまったくと言っていいくらいすっかり建て替えられてしまった。旧岡田家もかなり老朽化していたような気がする。今はご覧のように記念館になってしまった。時流と言ってしまえばそれまでだが、街を残すというのは容易なことではないらしい。京都だってよそ事ではない。
それはともかく「俳画の美 蕪村・月渓」はいかにも柿衞文庫らしいしっとりとしたいい展示だった。蕪村のとびきりの名品「又平に」だとか「徒然草・宇治拾遺物語図屏風」だとか「奥の細道画巻」なども良かったし、それこそ俳画のキラリと光る名軸がいくつも並んでいた。
それはそれとして今回は月渓(宝暦二1752〜文化八1811)の作品をまとめて見られたのが収穫だった。月渓は二十歳頃に蕪村の弟子となり蕪村そっくりな作風を身につけた。その後、不幸が重なって傷心の身を養うため蕪村にすすめられて池田(大阪府池田市)へ移った。この地で心機一転、呉春と名前も変えて僧形となった。蕪村歿後は円山応挙と親しくなり四条派の画風を自家のものとする。その月渓時代の主要作が二十点以上並んでいた。蕪村と相対で較べては酷なところもないとは言えないけれども、図録に戸田勝久さんが
《自ら光を放つ太陽にはかなわないものの、太陽からの光を浴びて夜空に浮かぶ月の美しさもある。》
と書いておられる通りだと思う。書簡や俳句帖などもあって飽きない展示である(11月4日まで)。下は月渓筆「蕪村像」。
そうそう、驚いたのは岡田柿衞が昭和六、七年に撮影した前衛写真二点。柿衞の事績を伝える展示コーナーに並んでいたのだが、柿衞は一時期、浪華写真倶楽部に属していたそうで、道楽を越えた本筋の作品になっていた。
また隣接する伊丹市立美術館では中原浩大展をやっている。ほぼエスキースばかり。誰か、例えば坪内稔典さんとか、が俳句を寄せたらコンテンポラリーな俳画になりそうだ。
駅への戻り道、あるお寺の門前に今日の一言が張り出してあった。
三日月もほんとうはまあるい
うまいこと言うなあと思った。帰ってから調べたら浄土宗の十月の日めくりの表題だそうだ。お寺さんの標語にはアンチョコがあったのか。