林蘊蓄斎の文画な日々
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味覚極楽

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『味覚極楽』(東京日日新聞社会部編纂、光文社、一九二七年一二月八日再版、表紙=山形駒太郎)。ある古本屋さんから「これ林さんが好きそうだと思ってとっておきました」と手渡された。今、日本の古本屋で「味覚極楽」と検索すると『味覚極楽 子母澤寛聞き書』(龍星閣)ばかりヒットするが、ありました、某書店さんが函付初版をたいへんな値段で出しておられる。こちらは函なし再版なのでグッと落ちるとは思うが、気分は悪くない。深謝です。

本書は昭和二年に東京日日新聞に連載された「味覚極楽」をまとめた単行本である。連載当初から大きな反響があったと編者の小野賢一郎は書いている。執筆者がなかなかである。石黒忠悳(いしぐろただのり、子爵・軍医)、福原信三(資生堂主人)、道重信教(増上寺大僧正)、伊井蓉峰(俳優)…と三十二人全部あげていてはきりがないのでめぼしい人物だけ拾うと…斎藤義政(千疋屋主人)、尾上松助(俳優)、永見徳太郎(南蛮趣味研究家)、ボース(印度志士)、黒川光景(赤坂虎屋主人)、竹越三叉(史家・政治家)、吉田十一(東京駅長)、秋山徳蔵(宮内省司厨長)、高村光雲(彫刻家)、三輪善兵衛(ミツワ石鹸)ら。

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誰もが熱心に語っているし、じっさい興味津々の話が多いけれど、今回は高村光雲(高村光太郎の父親です)の「四谷馬方蕎麦」を引用しよう。新蕎麦が待たれる季節(とはいえ十一月にならないと店には出回らないようだが)。光雲の話はめっぽうおもしろい(『光雲懐古談』万里閣書房)。

《維新前後、そばもりかけ十六文。店の前の往来へ、大てい正面に「二八」横の方に「二八そば」と書いた大きなあんどんがおかれてあつた。》《ところによつては、往来、このあかりが一つといふ淋しさ。お武家は余り行かないが町人は食べに行く。》

《そばは手打ち、うでてしやつきりと角があつておつゆをかけて出されても、きらりと光つてゐたものである。「かけ」の丼は八角の朝顔がた、せいろも今のとはちよつと違つて、あの四角の端に耳が出てゐる、つまり井桁に組んであつてあげ底に細い竹がすうすうつとつくりつけになつてゐる。このごろは竹のすだれで至極手軽になつてゐるが、あんなものではなかつた。手で粉をこねて、のして、さくりさくりと切つたそばである。》

《「ざるそば」といふのは、通常のところには無く、竹あみ一枚のざるへもつて出すので、海苔なんかかゝつてゐるものではない。神田けだもの店[だな]、(今の豊島町通りを右へまはつた辺)に「二六そば」という名物、つまり十二文で、なみのところより四文安いが、またその安いざつなところに一種の味があつて、そば食ひ達はよく出かけた。》

《四谷の「馬方そば」も評判で、真黒いもりがよくて、一つで充分昼食代りになつた。》《両国回向院前に「田舎そば」といふのがあつた。有名でよく遠くから食ひに集まつた。このうちには細打ち、中打ち、太打ちと三通りあつて、註文次第でどれでもこしらへてくれる。》《深川弁天脇の「冬木そば」はなかなか凝つたもので、贅沢やが珍重した。浅草駒形には「つんぼそば」、おやぢがひどいつんぼでくるくるの坊主頭だつたから「坊主そば」ともいつた。》

《麻布永坂の更科、池の端の蓮玉庵、団子坂の薮そばはその頃から有名で、神楽坂の春月は二八そば随一のうまさだなどゝいはれたものだ。下谷車坂の小玉屋といふのも評判。七軒町の佐竹ッ原のところに蘭麺といふのがあつた、これもうまかつたが、何しろあの辺はずつと屋敷町で、夜になると真ッ暗で、鼻をつままれてもわからぬ位、それに佐竹侯だの立花侯だのゝ仲間折助[ちうげんおりすけ]などが悪さをするので女などは通れなかつた。
 よく昼間出かけて行くと大名の屋敷内などから、金蒔絵をした立派な重箱をもつて、そばを買ひにきてゐた。一体あのそばは元禄時代からぽつぽつ出たものだといふ事で、はじめ菓子屋で売つたといふが、その頃になつてもまだ菓子屋で、そばを売つてるところもあつた。今のうで出しうどんのやうに、これを買つて来て家[うち]でうで、つゆをこしらへて食べるものもあつた。》

《「夜鷹そば」は如何にも江戸らしい風情のあつたもので、細いあんどんにお定まりの当り矢、手拭をとんがりかぶり(けんかかぶり)にして、風りんをチンリンチンリン「そばアウーイ」とくる、筒袖のこしらへ。》《火事見の帰りに、往来へしやがんでこれを食べる。火事はまづ冬、凍るやうなところで舌の焼けるやうに熱いのを、ふうふう吹きながらたべる、味百層倍で、小食なものも三杯はお代りをした。》《そら火事だといふが早いか、殆ど江戸中の夜そば屋はこの火事場へ集まつて来たものである。》

…と引用していてはきりがないが、語り口がじつにいい。この蕎麦の写真は芦屋の「かぶらや」。まずまずだった。
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by sumus_co | 2012-09-28 20:54 | 古書日録
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