矢部登『田端抄』(書肆なたや、二〇一二年一月、
http://sumus.exblog.jp/17634048/)の続編『田端抄其弐』(書肆なたや、二〇一二年六月)が届いた。
柴田宵曲が和田芳恵に「書物によつて過去の世の中に生存してゐるやうなものです」と言ったというが、矢部氏は伊藤晴雨「田端村古繪圖」を思い描きつつ動坂から谷田橋を渡り東覺寺坂、江戸坂を、また田山花袋『東京の近郊』の文言を思い浮かべながら荒川堤を歩く。東京の大都市風景しか知らない者にも江戸の遺風が残る明治の風が心地よく吹きすぎるようなエッセイである。
《明治四十五年、東京市長の尾崎行雄が荒川堤五色の櫻の苗木三千本をワシントンへ贈り、ポトマック河畔に植樹した。》
《今年はアメリカへ五色櫻が贈られて百周年にあたる。
最近、昭和初期の荒川堤五色の櫻繪葉書をみて、花の鮮やかな色彩に駭いた。
櫻の変り種から、結城信一の小品「緋寒櫻」が思い浮かぶ。
春の半島、川奈ホテルで、みごとな緋寒櫻をみる。緋紅色の寒櫻であった。
結城さんは、東京やその近郊でみられる染井吉野を好まない。理由はいろいろあったろうが、学生時代に国文学を教わった素白先生も、おなじ意見のようである。素白先生から数多くの手紙をいただいた結城さんは、そのなかから、櫻にふれた一節を書きうつしている。
「東京の櫻は近頃みんな染井吉野とかいふ育ちの早い安つぽい花になつて、まるで明治以後の東京の悪い方面の象徴になつて仕舞ひました。」》
余計なことだが、現在ではソメイヨシノは幕末頃に江戸の染井村(豊島区駒込)の職人たちによって開発されたとされている(
ソメイヨシノの真の起源について)。エドヒガンとオオシマザクラの交配で生まれたと考えられているようだ。明治時代に学校の校庭に植えられるようになって急速に認知され、日本の象徴のようになったらしい。日本人が「サクラ」と聞いて思い浮かべる花の姿は、やはり日清・日露を境にすっかり変ったと想定してもいいような気がする。教育というものがそれまでの価値観や常識を変えてしまうという好例でもあろう。
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『紙魚』50号(書物屋、二〇一二年四月二四日、新潟市中央区本馬越1-16-12)
《編集者の詩人鈴木良一(1947年、新潟市生まれ)は本県の詩の歴史と時代を問う仕事として、95年から17年間の時間と、単独かつ忍耐強い意志で、かつて誰もがなし得なかった成果をぼくらの前に示したのである》(齋藤健一「鈴木良一編「紙魚」50号に寄せて」新潟日報二〇一二年六月二日より)
一九四六年から九五年までの新潟県で発行された詩集・詩誌の目次総覧が五十冊の『紙魚』となった。労作である。作品を伝えて行く努力が作品を作品たらしめる。