堺市の与謝野晶子文芸館で宇崎純一展を開催することが決定した。
上は同館所蔵のアルフォンス・ミュシャによるミュシャ展のポスター(同館パンフレット『与謝野晶子とミュシャ』より)。パリのボナパルト通りにあったレオン・デシャン(Léon Deschamps)の雑誌『ラ・プリュム La Plume』の社屋に設けられたホールで一八九七年に開催された。ポスター上部に大書されている「サロン・デ・サン SALON DES CENT」はデシャンが主催した美術展である。一八八四年から一九〇〇年までの七年間で五十三回開かれている。そのうちのひとつがミュシャ展だったわけだ。このとき『ラ・プリュム』はミュシャ特集号も出している。
『ラ・プリュム』(羽、羽根ペンの意味)は象徴派の流れにのった芸術至上主義の雑誌で一八八九年創刊。ヴェルレーヌ、モレアス、ラフォルグ、レオン・ブロワ、マラルメなどの執筆によってたちまち人気を博した。表紙や挿絵にはフォラン、トゥールーズ・ロートレック、モーリス・ドニ、ゴーギャン、ピサロ、シニャック、スーラ、ルドンなどを登用している。一八九九年にカール・ボエ(Karl Boès)に受け継がれて一九一四年まで続いた。
以下はフェルメールとレンブラントではないけれど、『明星』の表紙や挿絵とミュシャとの関係、というかパクリの数々。左が『明星』、右がミュシャ。
晶子が鉄幹の後を追ってパリを訪問したのは『明星』終刊の年一九〇八(明治四十一年)。ストレートなパリ愛しの歌を残している。
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す
君も雛罌粟(ココリコ)われも雛罌粟
三千里わが恋人のかたはらに
柳の絮(わた)の散る日に来(きた)る
物売にわれもならまし初夏の
シヤンゼリゼエの青き木のもと
このパンフを繰っていて、与謝野夫妻の間には六男六女があったことを知った。どこかの元知事・現市長さんも顔負けだ。その十二人の子供たちの名前がまたすごい。光、秀(しげる)、八峰、七瀬、鱗、佐保子、宇智子、アウギュスト、エレンヌ、健、寸(そん)、藤子。おやまあ、何と言うか、親の思想の変遷が分かるような名前の付け方ではないか。なおアウギュスト(後に昱[いく]と改名)以外の漢字一文字が男子である。