『海鳴り』24号(編集工房ノア、二〇一二年六月一日、表紙画=庄野英二)。いつもながらの読み応え、である。山田稔「手招き」は北川荘平、福田紀一と三人でもっていた会合「三馬会」について。前半はその会合を記憶や日記のなかから探り出す話だが、そのなかで多田道太郎に出会ったくだりから急降下のようなスリルに満ちた収束を迎える。鮮やかな手並み。
天野元「損な性分」は三嶋亭で母(天野忠の奥さん)とすき焼きを食べる。そして父(天野忠)のすき焼き奉行ぶりを回想する。
《そう言えば、河原町の喫茶店にもお供したような気がする。父が古本屋をたたんで、図書館で働きだしたころだったのだろうか。新しい職場では給料日が十七日に決まっていた。そんな日に母が夕食をすき焼きにすることがあった。父はことすき焼きに関しては鍋奉行であった。砂糖をパッパと入れ、醤油をだだーと流しこみ、母が用意した野菜や肉を僕から見ればアバウトに投げいれ、しばらくぐつぐつ煮るとそれで完成であった。おいしいやろ。父自身はたいして食べなかったように思う。インスタントのコーヒーが出回りだしたころ、カップに粉末とお湯を少し入れ、何となく魔法使いが呪文を唱えるような調子でぐちゃぐちゃと適当にかき混ぜ(そのように見えた)、お湯を注ぎたすと完成という具合であった。その湯気を満足げに眺めながらカップを差しだし、しばらくすると、どや、おいしいやろとつぶやくのであった。しかし、砂糖やクリームの入っていない黒い液体は僕たち兄弟にとっては苦いだけであった。それでも作るたびに、その言葉がいつもついてまわった。》
もうひとつ大塚滋「最後の"無頼派"」は吉田定一(さだかず)の思い出である。上林暁に師事した作家で編集者だった。貴重な記録。なかに喫茶店の「創元」が登場する。
《昭和二十四年(一九四九)ごろ、どこかのサークル、多分。詩人の小野十三郎さんの話が聞きたくていった大阪文学学校(「夜の詩会」?か)で知り合った友人に連れられて、ミナミの創元という本屋の奥にあった喫茶店へ行ったのだった。大阪の文学者のたまり場だということだった。
定一さんは小さなその店の隅に、じつにぐったりとした放埒な様子で坐り、器用に腕に注射をしていた。横にいた同年くらいの人も射っていた。詩人の花本公男さんだった(花本さんはその後、中学の先輩だということがわかり、いろいろ助けてもらった)。射っているのはヒロポンという覚醒剤だということだった。後になって知ったのだが、ヒロポンも戦後作家の好むところだったらしい。
「一本どや」
定一さんの細かった腕が注射器をさし出していた。思わず後ずさりした。
「模倣から始めるこっちゃ」
と、ひとしきり文学青年心得のようなことを伝授された。
「まあ、ときどきここ、のぞいたらええわ。たいていおるから。」
入門、という感じだった。後ずさりしながらも、私はついて行った。》
涸沢純平さんの後記を読んでいると《二月二十四日、山田稔さんから河野仁昭さんが亡くなったことを知らされた》とあった。
『海鳴り』に掲載されている杉山平一『希望』(編集工房ノア、二〇一一年)より「希望」。
杉山平一先生逝去 悼詩
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